2016年3月23日水曜日

暴力団社会における在日韓国・朝鮮人の比率は少ない?日本のヤクザの3割が在日はウソだった?

ヤクザ社会における在日韓国・朝鮮人の存在感

2016.03.23 16:00



日本の戦後復興に大きな役割を果たしたのが在日韓国・朝鮮人である。表の政財界だけでなく、裏社会にも、彼らの存在は大きな役割を担っていた。在日三世のジャーナリスト・李策氏が深層を綴る。

日本のヤクザの3割が在日。ネットで検索すると、かつて「ある識者」が無根拠に語ったこの言葉が、今も大量に電脳空間を漂っている。一方、これがいかに荒唐無稽な言説であるかを客観的に論破した主張も見かけるので、ここで屋上屋を架すことは敢えてしない。

ただ、1980年代に東京の朝鮮高校に通った私の同期男子(約200人)の中に、「本職」のヤクザとなった者が皆無であることは、本稿にとって意味のある事実なので念のため述べておこう。在日韓国・朝鮮人(以下、在日)のヤクザは、総数としてはかなりの少数派なのだ。

さて、私は決して、ヤクザの世界における在日の存在感の大きさを否定したいわけではない。逆に、それはある時代や立場に限定すれば客観的な事実だと思っている。

参考になるのが、警察庁発表の「平成26年の暴力団情勢」だ。山口組の分裂や極東会会長の引退が反映されていないデータではあるが、近年の趨勢は分かる。

これを見ると、全国の指定暴力団21団体のうち、明らかに在日の名を持つ親分に率いられた組織は5団体。そして、これら21団体の構成員は2万を超えるが、そのうちの2割弱が在日の親分に従っている構図だ。日本の総人口に占める在日の比率が、戦後に帰化した者まで含めてもせいぜい1~2%前後であろうことを考えると、「親分の在日比率」はかなり高い。

また、分裂した山口組の双方の組織において在日の幹部が枢要な地位を占めているのを見ても、この世界における在日の“出世ぶり”が顕著だ。では、その理由はどこにあるのか。

よく言われるのが、日本社会のアウトサイダーとしての“向こう見ずさ”である。民族差別と貧困の中で「学歴と就職」による成功の道を断たれ、己の度胸と腕力に頼るしかなかったとする物語だ。

たしかに、現在の老ヤクザたちが若かった頃には、そういった社会的背景があった。そして、在日ヤクザの“向こう見ずさ”の象徴的存在が、約100人の敵陣にわずか8人で殴り込み、「殺しの軍団」の異名を得た柳川組の柳川次郎(ヤン・ウォンソク)元組長だろう。

しかし、向こう見ずで暴力的なだけでは、ヤクザの世界では必ずしも大きくなれない。

山口組事情通によると、かつてこんなことがあった。

「1981年から翌年にかけて、三代目の田岡一雄組長と山本健一若頭が相次いで病死し、四代目跡目問題が浮上しました。このとき、『朝鮮人が山口組をおかしくしている』という内容の書かれた怪文書が出回った。最高幹部のある1人を指したものでした」

このとき彼が攻撃対象となったのは、彼がかつて明友会に所属していたからにほかならない(彼は、在日出身であることを否定している)。

明友会は1953年ごろ、大阪・鶴橋駅の高架下にあった国際マーケットを根城に、在日の若者を主体に結成された新興愚連隊で、間もなくミナミにも進出。急速に勢力を伸ばし、構成員1千人を豪語した。

ところが1960年8月、山口組との抗争がぼっ発するや、明友会はたった2週間で壊滅してしまった。

両者の差は、「組織力」にあったとされる。日本の社会に根差した歴史あるヤクザ組織に、差別や貧困に対する刹那的な激情を共有しただけの愚連隊はかなわなかったのだ。

◆在日ヤクザの「汚れ仕事」

“暴れん坊”ゆえ、在日ヤクザは出世したのではない。むしろ逆だ。彼らはヤクザ界の生存競争のなかで、緻密さやしたたかさを磨いていった。

あまり語られることはないのだが、出世した在日ヤクザには表の金融業や不動産業と結びついた「経済ヤクザ」が少なくない。現在の主要な指定暴力団の親分や最高幹部クラスにも、図抜けた財力を持つ面々が並ぶ。山口組2次団体の元企業舎弟が話す。

「在日に対する民族差別があったのは事実だし、大多数が貧しかったにしても、そうした逆境から度胸と才覚で這い上がった成功者も多かった。特に金融業界に在日は多い。そして、彼らの周りには、在日ヤクザが必ずついていた」

かつて、在日はまともな事業者であっても、日本の金融機関から融資を受けるのは難しかった。そんな中、「民族産業」のひとつとして発達した商売が高利貸しである。

怨嗟と羨望が入り交じるなかで生きる彼らは、身辺警護や取り立てに在日ヤクザの「力」を利用した。一方、ハイリスク・ハイリターンなシノギを稼業とするヤクザにとって、高利貸しは非常に便利な存在である。両者は持ちつ持たれつ、財力をなしていった。

資産インフレが続いた高度成長期には、パチンコや不動産業にも彼らは進出した。

「在日にはパチンコ業で財を成した人間が多いが、その一部はヤクザとも手を組んだ。彼らは駅前の一等地を、相場より高いカネを使ってでも押さえていった。当然、同業者と競合するからヤクザの腕力も必要だった」(西日本の金融業者)

どんなビジネスにも「汚れ仕事」の需要はあるものだが、1980年代のバブル期にはむしろ、こうしたやり方が日本経済の主流にさえなった。不動産価格が毎日のように上昇する中では、1日も早く土地を仕入れることが大事だ。銀行のグループ会社や上場デベロッパーが地上げに手を染め、その現場を担ったのが「スピード=腕力」に定評のあるヤクザ組織だった。

そして、当時暗躍したバブル紳士たちの中心に、ヤクザとつながる在日人脈がいたのもまた事実だ。

事業家だけでなく、政治家との関係も深い。筆頭に名前が上がるのは町井久之だろう。町井は、本名を鄭建永という。

1923年、東京に生まれた町井は戦後、在日を中心に1500人の無頼漢を糾合し、東声会会長として名をはせた。政界の黒幕・児玉誉士夫と昵懇であり、日韓国交正常化の立役者だった岸信介にも接近。国交正常化後、ソウル市地下鉄開発など巨額ビジネスを差配していた岸は、日韓利権の入り口とも言える存在だったからだ。

ほかにも前述した柳川や会津小鉄会の四代目会長だった高山登久太郎(姜外秀)が、韓国情報機関のエージェントとして日韓関係構築の黒子となって動いていたとの説もある。

つまりは民族差別によってオモテ社会からはじかれ、日本政財界の「周辺」で蠢いていた在日ヤクザたちは、時代の変化の中でその「中心部」に呼び込まれたわけだ。

だが、苛烈だった民族差別もいつしか消え、若い世代の在日にそれを体験した人は少ない。4世以降は、生まれつきオモテ社会の住人として認められている。

日本人と同様にスポーツや勉強に打ち込み、就職氷河期も経験してきた彼らに、先輩世代のヤクザのような「汚れ仕事」の腕を磨く余地は、多くはなかったのだ。

●李策/1972年生まれ。朝鮮大学校卒。日本の裏経済、ヤクザ社会に精通。現在は、北朝鮮専門ニュースサイト「デイリーNKジャパン」記者として、朝鮮半島関連の取材を精力的に続けている。

※SAPIO2016年4月号

参照元 : NEWSポストセブン


町井 久之



町井 久之(まちい ひさゆき、本名鄭建永〈チョン・ゴニョン、정건영〉。1923年 - 2002年9月18日)は、在日韓国人のヤクザ、実業家。東声会会長。東亜相互企業株式会社社長。釜関フェリー株式会社会長。在日本大韓民国民団中央本部顧問。若い頃は、「銀座の虎」、「雄牛」と呼ばれた。

来歴
大正12年(1923年)、東京生まれ。昭和20年(1945年)の終戦直後、朝鮮建国青年同盟東京本部副委員長となった。そのころから(1945年)、事件屋の「中央商会」、興行会社の「中央興行社」を設立した。これらの会社をベースに、愚連隊・町井一家(関東町井一家)が形成された。

韓国建国後に韓国国籍を取得したが、その後も日本に住み続ける。曺寧柱と出逢い「大アジア主義」の思想に感銘を受け、昭和32年(1957年)には東京・銀座で、町井一家を母体として「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもとに、在日朝鮮人連盟(現:朝鮮総連)や在日朝鮮統一民主戦線などへの防波堤として東声会を結成した。

その後、東声会は、東京、横浜、藤沢、平塚、千葉、川口、高崎などに支部を置いた。構成員は1600人となった。しかし急速な勢力拡大により、他のヤクザ団体が結束し、東声会は四面楚歌の状態に陥った。さらに、警察の取り締まりにより、東声会の幹部多数が逮捕された。 このため昭和38年(1963年)児玉誉士夫の取り持ちで、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となった。

同年11月9日午後6時9分ごろ、東京会館の前の路上で、東声会組員・木下陸男が、東京会館で行われた出版記念祝賀会から帰る途中だった田中清玄を銃撃した。警察は背後関係を疑い、町井を銃砲刀剣類所持等取締法で別件逮捕したが、背後関係までは立件できなかった。結局、町井は起訴されなかった[1](田中清玄銃撃事件)。

昭和39年(1964年)2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。町井の東声会は、警察庁により広域10大暴力団に指定された。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった。 警察の圧力の強まる中、昭和41年(1966年)9月1日、町井は東声会の解散声明を発表した。その一週間後、東京の池上本門寺で解散式が行われた。こうして彼はやくざ社会の表舞台から去った。

昭和42年(1967年)4月、町井は東声会を、企業色を前面に押し出した形で「東亜友愛事業協同組合」として再建し、自らは名誉会長となった。町井はこの東亜友愛事業協同組合に資金提供を行っており、人事権も握っていた、と云われる。なお、関東会も関東二十日会として復活した。間もなく、「東亜友愛事業協同組合」は「東亜友愛事業組合」と改称された。

その後、町井は東亜相互企業株式会社を設立した。会長には児玉誉士夫が就いた。東亜相互企業株式会社は、銀座で料亭「秘苑」を営業した。昭和43年(1968年)、韓国より国民勲章・冬栢章を受勲した。翌年釜関フェリー株式会社を設立し、就航させた。昭和46年(1971年)には、在日本大韓民国民団中央本部顧問に就任した。

昭和48年(1973年)7月、東亜相互企業株式会社は、六本木にTSK・CCCターミナルビルをオープンさせた。この資金源については、韓国外換銀行東京支店が、東亜相互企業株式会社に、支払い保証約60億円の信用供与を与えた。東亜相互企業株式会社は、60億円の支払い保証に基づいて、日本不動産銀行から54億円の融資を受けた。東亜相互企業株式会社は、33億円を那須高原・白河高原の総合開発事業につぎ込み、21億円をTSK・CCCターミナルビル建設につぎ込んだ。

なおTSK・CCCターミナルビルは、町井が暴力団活動などの非合法活動から決別し、「表の社会の成功者」として振る舞うことを演出することを主な目的として建設されたこともあり、東声会の構成員は、TSK・CCCターミナルビルのオフィス棟に置かれていた東亜相互企業とそのグループ企業のオフィスに出入りすることが固く禁じられていた。

しかし、白河高原の開発をめぐって、昭和51年(1976年)7月5日、東亜相互企業の黒沢勝利ら3人が、福島県知事・木村守江に対する500万円の贈賄容疑で逮捕された。同年8月6日、木村守江が収賄容疑で福島地方検察庁に逮捕された。町井も任意で取調べを受けた。結局、昭和52年(1977年)年6月、東亜相互企業は不渡りを出して倒産した。これ以降、町井はほとんど人前に出なくなり、TSK・CCCターミナルビル近くの自宅マンションに引きこもる日々が続いた。

平成14年(2002年)5月20日、釜関フェリー株式会社は、新たな航路船として豪華船「星希号」を就航させた。同年5月22日、釜山広域市で就航記念式が開かれた。就航記念式には、柳正錫海洋水産部長官、釜山広域市や下関市などの関釜航路関係部署の代表、民団中央本部の金宰淑団長が出席した。

町井は晩年糖尿病に苦しみ、かつて「猛牛」と呼ばれた面影はなかったという。2002年9月14日午前5時ごろ、東京都内の病院で、心不全のため死去。同年9月17日、通夜。同年9月18日、東京都港区六本木の自宅で、近親者だけで葬儀・告別式が行われた。

参照元 : wiki/町井久之


東亜会



東亜会(とうあかい)は、東京都に本拠を置く日本の暴力団。前身は東声会。1957年、アジア主義に共鳴し信奉する町井久之(本名は鄭建永)が、「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもと、在日朝鮮人連盟(現:朝鮮総連)や在日朝鮮統一民主戦線などへの防波堤として、東京都銀座で反共産主義の思想団体・東声会を結成した。

しかし、世間からはヤクザ組織と認識され、警察による締め付けが厳しくなったために町井は1966年9月1日に解散を宣言するが、翌1967年、東亜友愛事業組合として再建された。東亜友愛事業組合理事長には、東声会副会長・平野富士松が就任。 昭和47年(1972年)、関東二十日会に加盟した。下部組織の誼興業は沖縄県に進出していたが、2012年3月を以て解散した。

他団体関係
関東地方を本拠地とする稲川会、住吉会、松葉会、双愛会という4団体とともに、博徒系の親睦団体・関東二十日会を結成している。[3] 山口組とは田岡一雄―町井久之の兄弟盃以来、東亜友愛事業組合理事長・薛伟超が三代目山口組で「幹部扱い」され、四代目山口組時代には「若頭補佐待遇」とされるなど友好関係を保ち、親戚団体の一つとなっている。2005年、六代目山口組組長を襲名した司忍を後見人に迎え、関係を更に強化した。



歴代会長・理事長
東声会会長 - 町井久之(本名は鄭建永)
東亜友愛事業組合初代理事長 - 平野富士松
東亜友愛事業組合二代目理事長 - 沖田守弘
東亜友愛理事長 - 二村昭平
東亜会初代会長 - 二村昭平
東亜会二代目会長 - 金海芳雄
==最高幹部==長宗我部元親

参照元 : wiki/東亜会

0 件のコメント:

コメントを投稿