明石家さんまら大物芸人が山口組幹部と密接交際の過去発掘
2017/6/3 12:10
山口組分裂のニュースが巷を騒がせているが、かつて、明石家さんま(61)や間寛平(67)といった、そうそうたる芸人たちが、山口組と深い交流をしていたことを物語る写真の数々が発掘され、話題を呼んでいる。
これらの写真が掲載されているのは『烈俠外伝』(サイゾー刊)。同書は、三代目山口組の中でも屈指の武闘派と言われた加茂田組の組長・加茂田重政親分が所有する写真を中心に、70〜80年代に活動した昭和のヤクザの実像を伝えているビジュアルブックだ。加茂田親分は、「史上最大の抗争」といわれる山一抗争で、一和会の最高幹部として勇名を馳せた大物極道である。それゆえ、今回明らかになった写真の数々も目を引くものばかりだ。
三代目山口組組長を筆頭に、最も勢いがあった頃の山口組を支えた伝説の組長たちの素顔が覗ける写真。任侠映画でしか見たことがなかったリアルな親子盃の様子や、北海道での抗争の最中、加茂田組と機動隊が対峙するという緊張感が伝わる場面なども収めれている。
中でも、興味深いのが、今では考えられない大物芸能人との密接交際を証明する写真だ。三代目山口組組長代行補佐まで上り詰めた加茂田親分のもとに、鶴田浩二や菅原文太、梅宮辰夫など、東映の任侠映画ではおなじみの面々のほか、杉良太郎や松平健、細川たかしらが訪れ、親分と酒の飲みながら談笑し、時にマイクを握って熱唱する姿も見られるのである。
また加茂田組は、地元・神戸市番町で毎年「地蔵盆」と呼ばれる、地域住民を巻き込んだ盛大な祭りを開催していたが、そこには、吉本興業の大物芸人たちが次々と訪れ、人々を楽しませていったという。
「『烈俠外伝』には、間寛平や坂田利夫、B&B、月亭八方らが加茂田組の地蔵盆に参加していたときの写真が掲載されていますが、それもほんの一握りです。実際には、吉本興業が組織を上げて、加茂田組といい付き合いをしていた。明石家さんまに至っては、加茂田家親族の結婚式の司会までしていますからね。ヤクザとの交際や商取引が半ば公然として認められていた、牧歌的な時代だったといえます」(『烈俠外伝』の制作にかかわった関係者)
ヤクザと住民と芸人が一緒になって祭りで盛り上がる――ヤクザが反社会的勢力と位置づけられ、暴力団排除条例によって、芸能界も一般社会も彼らと接点を持つことすら許されなくなった今日では考えられない風景である。
2011年には、島田紳助が山口組幹部との交際を認めて芸能界を引退したが、水面下で裏社会との交流をひっそりと続ける芸能人は今でも少なくないといわれる。『烈俠外伝』に収められた40年前の社会と現在は何が違うのか? なぜ、ヤクザは社会から排除されるようになったのか?
おなじみの出っ歯を見せて、加茂田組幹部の横で微笑むさんまの姿を見ると、そんなことを考えさせられてしまうだろう。
参照元 : デイリーニュースオンライン
加茂田組と大物芸能人との交流、そして「裏執行部」と噂されたお好み焼き屋の謎
2017.06.01
三代目山口組屈指の武闘派としてならした加茂田組と、その親分である加茂田重政氏。今でも語り草になっている伝説の俠客たちの姿を存分に収めた書籍『烈俠 山口組 史上最大の抗争と激動の半生』と、ビジュアルブック『烈俠外伝 秘蔵写真で振り返る加茂田組と昭和裏面史』が好評を博している。
そこには、多くの人の関心の的である、山一抗争へ連なる加茂田親分の生き様のみなず、現在の暴力団とは明らかに異なる、社会や地域と一緒に歩んでいた「昭和のヤクザ」の姿がリアルに描かれていたのだ。
さらに加茂田組にまつわる逸話を紹介すべく、『烈俠外伝』でも貴重な話を展開してくれた元加茂田組系二次団体若頭補佐の沖中東心氏が、当サイトに特別手記を寄せてくれた。最終回となる今回は、ユーモラスな語り口で、加茂田組の交流について触れてもらった――。(前編、中編はこちら) 藤山寛美の洒落ごころ
『烈侠外伝』では、多くの芸能人との交流が描かれている。しかし、紙幅の関係ですべてに触れられたわけではなかった。そこで、私が実際に見聞きした芸能人との付き合いついて話を進めたい。
加茂田組と交流のあった芸能人に、喜劇役者の藤山寛美さんがいた。
あるとき、その寛美さんから加茂田の親分に、エメラルドが散りばめられた高級腕時計がプレゼントされたことがあった。それからすぐ、姐さんが身近な人たちと数人で寛美さんの舞台を観に行った。
その本番の舞台のセリフで、寛美さんが「こまったなぁ、これは大きな問題やなぁ」と喋った後、「こんな難しい問題は加茂田の親分に頼まなあかんわ」と続けた(笑)。今では考えられないことだろうが、昔はおおらかだったのだ。
そういえば、細川たかしさんが日本レコード大賞(1982年)を受賞した時、そのテレビを見ながら若頭の飯田組長がすぐに細川さんの家族へ「今テレビ見てるけどな、よかったな」とお祝いの電話を入れていたことがあった。可愛がってやったかいがあったわ、ともおっしゃっていた。
加茂田組には、あれだけ大きな組織だったにもかかわらず、表立った派閥がまったくなかった。
それは、加茂田重政という稀代の親分のカリスマ性はもちろんのこと、飯田若頭をはじめとした執行部の方々による絶妙な組織運営術があったからだと思っている。
最後になるが、私は加茂田親分の若衆ではない。私の親分は加茂田組配下の直系組長であった。私にとっての親分はこの先、その人しかいない。加茂田組や加茂田親分に対する思い入れは山よりも大きいが、私にとってのすべては私の直の親分である、ということを付け加えておく。
<余録>へんこつやの謎
加茂田組・本部事務所に並んだすぐ近所に「へんこつや」というお好み焼き屋があった。プレハブ小屋の店舗で、当時から老夫婦が経営している、なんの変哲もない店だった。しかし、これがうまいのである。
柔らかい生地がどろソースとよく合い、絶品なのだ。これまで食べたお好み焼きで、この店の右に出る店はない。それほどうまいのだ。
当番に入れば毎回行ったし、寄り合いの時は加茂田組関係者でいっぱいになっていた。いっぱいといっても、5~6人も入れば満員になる、猫の額ほどの小さな店だ。
ここの老夫婦は、加茂田組関係者の直参に対しては「◯◯のおやっさん」、枝の若衆には「あんちゃん」と呼ぶ。直参であれば、一人親方であっても「◯◯のおやっさん」と呼んでいた。
だが、面白いことに、この老夫婦には独自の基準があったらしい。新しく直参になった人に対しても「あんちゃん」と呼ぶことがあったのだ。直参に直ったのを知りながら、そう呼ぶのである。
つまり、認めていないのだ。
その「あんちゃん」と呼ばれていた直参は、加茂田組直参の重圧からか、すぐに居なくなった。逆に、ある枝の若衆に対して、ある日突然、「◯◯のおやっさん」と呼び始めたことがあった。すると、その若衆はその後、すぐに直参に上がった。
そういうことが何度かあって、それからある噂が立った。この老夫婦は、お好み焼き屋というのは仮の姿で、実は加茂田組の人事権を握る「隠れ執行部」ではないのか、と。また、「いや、親分の血縁だろう」「我々の会話を親分に報告しているらしい」といった風聞を耳にしたこともあった。
するとそれ以降、へんこつやに行く際、店に入る時には大きな声で挨拶する者が続出し、お好み焼きを食べ残す者はいなくなった。
加茂田組が解散した後、何度も食べに行ったが、変わらぬおいしさがありがたかった。
しかし、震災の後に訪ねた時は、もう店はなくなっていた。へんこつやの謎については、もちろん半分ジョークではある。しかし、本当にあの老夫婦が加茂田組裏執行部だったのか、今となってはもう知る術もない(笑)。
(文=沖中東心)
参照元 : ビジネスジャーナル
2017/6/3 12:10
山口組分裂のニュースが巷を騒がせているが、かつて、明石家さんま(61)や間寛平(67)といった、そうそうたる芸人たちが、山口組と深い交流をしていたことを物語る写真の数々が発掘され、話題を呼んでいる。
これらの写真が掲載されているのは『烈俠外伝』(サイゾー刊)。同書は、三代目山口組の中でも屈指の武闘派と言われた加茂田組の組長・加茂田重政親分が所有する写真を中心に、70〜80年代に活動した昭和のヤクザの実像を伝えているビジュアルブックだ。加茂田親分は、「史上最大の抗争」といわれる山一抗争で、一和会の最高幹部として勇名を馳せた大物極道である。それゆえ、今回明らかになった写真の数々も目を引くものばかりだ。
三代目山口組組長を筆頭に、最も勢いがあった頃の山口組を支えた伝説の組長たちの素顔が覗ける写真。任侠映画でしか見たことがなかったリアルな親子盃の様子や、北海道での抗争の最中、加茂田組と機動隊が対峙するという緊張感が伝わる場面なども収めれている。
中でも、興味深いのが、今では考えられない大物芸能人との密接交際を証明する写真だ。三代目山口組組長代行補佐まで上り詰めた加茂田親分のもとに、鶴田浩二や菅原文太、梅宮辰夫など、東映の任侠映画ではおなじみの面々のほか、杉良太郎や松平健、細川たかしらが訪れ、親分と酒の飲みながら談笑し、時にマイクを握って熱唱する姿も見られるのである。
また加茂田組は、地元・神戸市番町で毎年「地蔵盆」と呼ばれる、地域住民を巻き込んだ盛大な祭りを開催していたが、そこには、吉本興業の大物芸人たちが次々と訪れ、人々を楽しませていったという。
「『烈俠外伝』には、間寛平や坂田利夫、B&B、月亭八方らが加茂田組の地蔵盆に参加していたときの写真が掲載されていますが、それもほんの一握りです。実際には、吉本興業が組織を上げて、加茂田組といい付き合いをしていた。明石家さんまに至っては、加茂田家親族の結婚式の司会までしていますからね。ヤクザとの交際や商取引が半ば公然として認められていた、牧歌的な時代だったといえます」(『烈俠外伝』の制作にかかわった関係者)
ヤクザと住民と芸人が一緒になって祭りで盛り上がる――ヤクザが反社会的勢力と位置づけられ、暴力団排除条例によって、芸能界も一般社会も彼らと接点を持つことすら許されなくなった今日では考えられない風景である。
2011年には、島田紳助が山口組幹部との交際を認めて芸能界を引退したが、水面下で裏社会との交流をひっそりと続ける芸能人は今でも少なくないといわれる。『烈俠外伝』に収められた40年前の社会と現在は何が違うのか? なぜ、ヤクザは社会から排除されるようになったのか?
おなじみの出っ歯を見せて、加茂田組幹部の横で微笑むさんまの姿を見ると、そんなことを考えさせられてしまうだろう。
参照元 : デイリーニュースオンライン
加茂田組と大物芸能人との交流、そして「裏執行部」と噂されたお好み焼き屋の謎
2017.06.01
三代目山口組屈指の武闘派としてならした加茂田組と、その親分である加茂田重政氏。今でも語り草になっている伝説の俠客たちの姿を存分に収めた書籍『烈俠 山口組 史上最大の抗争と激動の半生』と、ビジュアルブック『烈俠外伝 秘蔵写真で振り返る加茂田組と昭和裏面史』が好評を博している。
そこには、多くの人の関心の的である、山一抗争へ連なる加茂田親分の生き様のみなず、現在の暴力団とは明らかに異なる、社会や地域と一緒に歩んでいた「昭和のヤクザ」の姿がリアルに描かれていたのだ。
さらに加茂田組にまつわる逸話を紹介すべく、『烈俠外伝』でも貴重な話を展開してくれた元加茂田組系二次団体若頭補佐の沖中東心氏が、当サイトに特別手記を寄せてくれた。最終回となる今回は、ユーモラスな語り口で、加茂田組の交流について触れてもらった――。(前編、中編はこちら) 藤山寛美の洒落ごころ
『烈侠外伝』では、多くの芸能人との交流が描かれている。しかし、紙幅の関係ですべてに触れられたわけではなかった。そこで、私が実際に見聞きした芸能人との付き合いついて話を進めたい。
加茂田組と交流のあった芸能人に、喜劇役者の藤山寛美さんがいた。
あるとき、その寛美さんから加茂田の親分に、エメラルドが散りばめられた高級腕時計がプレゼントされたことがあった。それからすぐ、姐さんが身近な人たちと数人で寛美さんの舞台を観に行った。
その本番の舞台のセリフで、寛美さんが「こまったなぁ、これは大きな問題やなぁ」と喋った後、「こんな難しい問題は加茂田の親分に頼まなあかんわ」と続けた(笑)。今では考えられないことだろうが、昔はおおらかだったのだ。
そういえば、細川たかしさんが日本レコード大賞(1982年)を受賞した時、そのテレビを見ながら若頭の飯田組長がすぐに細川さんの家族へ「今テレビ見てるけどな、よかったな」とお祝いの電話を入れていたことがあった。可愛がってやったかいがあったわ、ともおっしゃっていた。
加茂田組には、あれだけ大きな組織だったにもかかわらず、表立った派閥がまったくなかった。
それは、加茂田重政という稀代の親分のカリスマ性はもちろんのこと、飯田若頭をはじめとした執行部の方々による絶妙な組織運営術があったからだと思っている。
最後になるが、私は加茂田親分の若衆ではない。私の親分は加茂田組配下の直系組長であった。私にとっての親分はこの先、その人しかいない。加茂田組や加茂田親分に対する思い入れは山よりも大きいが、私にとってのすべては私の直の親分である、ということを付け加えておく。
<余録>へんこつやの謎
加茂田組・本部事務所に並んだすぐ近所に「へんこつや」というお好み焼き屋があった。プレハブ小屋の店舗で、当時から老夫婦が経営している、なんの変哲もない店だった。しかし、これがうまいのである。
柔らかい生地がどろソースとよく合い、絶品なのだ。これまで食べたお好み焼きで、この店の右に出る店はない。それほどうまいのだ。
当番に入れば毎回行ったし、寄り合いの時は加茂田組関係者でいっぱいになっていた。いっぱいといっても、5~6人も入れば満員になる、猫の額ほどの小さな店だ。
ここの老夫婦は、加茂田組関係者の直参に対しては「◯◯のおやっさん」、枝の若衆には「あんちゃん」と呼ぶ。直参であれば、一人親方であっても「◯◯のおやっさん」と呼んでいた。
だが、面白いことに、この老夫婦には独自の基準があったらしい。新しく直参になった人に対しても「あんちゃん」と呼ぶことがあったのだ。直参に直ったのを知りながら、そう呼ぶのである。
つまり、認めていないのだ。
その「あんちゃん」と呼ばれていた直参は、加茂田組直参の重圧からか、すぐに居なくなった。逆に、ある枝の若衆に対して、ある日突然、「◯◯のおやっさん」と呼び始めたことがあった。すると、その若衆はその後、すぐに直参に上がった。
そういうことが何度かあって、それからある噂が立った。この老夫婦は、お好み焼き屋というのは仮の姿で、実は加茂田組の人事権を握る「隠れ執行部」ではないのか、と。また、「いや、親分の血縁だろう」「我々の会話を親分に報告しているらしい」といった風聞を耳にしたこともあった。
するとそれ以降、へんこつやに行く際、店に入る時には大きな声で挨拶する者が続出し、お好み焼きを食べ残す者はいなくなった。
加茂田組が解散した後、何度も食べに行ったが、変わらぬおいしさがありがたかった。
しかし、震災の後に訪ねた時は、もう店はなくなっていた。へんこつやの謎については、もちろん半分ジョークではある。しかし、本当にあの老夫婦が加茂田組裏執行部だったのか、今となってはもう知る術もない(笑)。
(文=沖中東心)
参照元 : ビジネスジャーナル
お早うございます、働くおっさんです。— ポンチ (@ponchi826) 2017年5月24日
昨日手に入れた『烈侠外伝』、写真メインの本ですが、本文も写真に負けず劣らず面白く、ちびりちびり読んでます。元加茂田軍団の対談とかね。読み終わるのが惜しい。 pic.twitter.com/xvcOSo3Zqs
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