元東声会 京都支部長 唐田知明氏 通称 二丁拳銃の唐田
彼の波乱万丈で強烈な生き様、そして芸能界との繋がり、武勇伝などを紹介します。ヤクザと芸能界の歴史がよく分かります。
東声会とは?
町井 久之(まちい ひさゆき、1923年 - 2002年9月18日)は、ヤクザ、実業家。東声会会長。東亜相互企業株式会社社長。釜関フェリー株式会社会長。在日本大韓民国民団中央本部顧問。在日韓国人。本名は鄭建永(チョン・ゴニョン、정건영)。若い頃は、「銀座の虎」、「雄牛」と呼ばれた。
大正12年(1923年)、東京生まれ。昭和20年(1945年)の終戦直後、朝鮮建国青年同盟東京本部副委員長となった。そのころから(1945年代)、事件屋の「中央商会」、興行会社の「中央興行社」を設立した。これらの会社をベースに、愚連隊・町井一家(関東町井一家)が形成された。
昭和32年(1957年)には東京・銀座で、町井一家を母体として「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもとに、在日朝鮮人連盟(現:朝鮮総連)や在日朝鮮統一民主戦線などへの防波堤として東声会を結成した。
その後、東声会は、東京、横浜、藤沢、平塚、千葉、川口、高崎などに支部を置いた。構成員は1600人となった。しかし急速な勢力拡大により、他のヤクザ団体が結束し、東声会は四面楚歌の状態に陥った。
さらに、警察の取り締まりにより、東声会の幹部多数が逮捕された。このため昭和38年(1963年)児玉誉士夫の取り持ちで、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となった。同年11月9日午後6時9分ごろ、東京会館の前の路上で、東声会組員・木下陸男が、東京会館で行われた出版記念祝賀会から帰る途中だった田中清玄を銃撃した。
警察は背後関係を疑い、町井を銃砲刀剣類所持等取締法で別件逮捕したが、背後関係までは立件できなかった。結局、町井は起訴されなかった(田中清玄銃撃事件)。
昭和39年(1964年)2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。町井の東声会は、警察庁により広域10大暴力団に指定された。
10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった。 警察の圧力の強まる中、昭和41年(1966年)9月1日、町井は東声会の解散声明を発表した。
その一週間後、東京の池上本門寺で解散式が行われた。こうして彼はやくざ社会の表舞台から去った。昭和42年(1967年)4月、町井は東声会を、企業色を前面に押し出した形で「東亜友愛事業協同組合」として再建し、自らは名誉会長となった。
町井はこの東亜友愛事業協同組合に資金提供を行っており、人事権も握っていた、と云われる。なお、関東会も関東二十日会として復活した。間もなく、「東亜友愛事業協同組合」は「東亜友愛事業組合」と改称された。その後、町井は東亜相互企業株式会社を設立した。会長には児玉誉士夫が就いた。東亜相互企業株式会社は、銀座で料亭「秘苑」を営業した。
昭和43年(1968年)、韓国より国民勲章・冬栢章を受勲した。翌年釜関フェリー株式会社を設立し、就航させた。昭和46年(1971年)には、在日本大韓民国民団中央本部顧問に就任した。
昭和48年(1973年)7月、東亜相互企業株式会社は、六本木にTSK・CCCターミナルビルをオープンさせた。この資金源については、韓国外換銀行東京支店が、東亜相互企業株式会社に、支払い保証約60億円の信用供与を与えた。
東亜相互企業株式会社は、60億円の支払い保証に基づいて、日本不動産銀行から54億円の融資を受けた。東亜相互企業株式会社は、33億円を那須高原・白河高原の総合開発事業につぎ込み、21億円をTSK・CCCターミナルビル建設につぎ込んだ。
なおTSK・CCCターミナルビルは、町井が暴力団活動などの非合法活動から決別し、「表の社会の成功者」として振る舞うことを演出することを主な目的として建設されたこともあり、東声会の構成員は、TSK・CCCターミナルビルのオフィス棟に置かれていた東亜相互企業とそのグループ企業のオフィスに出入りすることが固く禁じられていた。
しかし、白河高原の開発をめぐって、昭和51年(1976年)7月5日、東亜相互企業の黒沢勝利ら3人が、福島県知事・木村守江に対する500万円の贈賄容疑で逮捕された。同年8月6日、木村守江が収賄容疑で福島地方検察庁に逮捕された。
町井も任意で取調べを受けた。結局、昭和52年(1977年)年6月、東亜相互企業は不渡りを出して倒産した。これ以降、町井はほとんど人前に出なくなり、TSK・CCCターミナルビル近くの自宅マンションに引きこもる日々が続いた。
平成14年(2002年)5月20日、釜関フェリー株式会社は、新たな航路船として豪華船「星希号」を就航させた。同年5月22日、釜山広域市で就航記念式が開かれた。就航記念式には、柳正錫海洋水産部長官、釜山広域市や下関市などの関釜航路関係部署の代表、民団中央本部の金宰淑団長が出席した。
町井は晩年糖尿病に苦しみ、かつて「猛牛」と呼ばれた面影はなかったという。2002年9月14日午前5時ごろ、東京都内の病院で、心不全のため死去。同年9月17日、通夜。同年9月18日、東京都港区六本木の自宅で、近親者だけで葬儀・告別式が行われた。
参照元 :
wiki/町井久之
唐田知明氏の破天荒伝説が掲載されたのは、 実話マッドマックス(コアマガジン)08年8月号。昭和の激動を駆け抜けた唐田知明の強烈な極道人生は読者に驚きをもたらせた。その生き様は熱く、凄まじいものであった。
昭和11年に熊本県天草市で生まれた唐田知明は、中学生の時に立て籠もり事件で鑑別所を体験。出所後にテキ屋と大乱闘を繰り広げ、中学生が起こした喧嘩に地元の親分が仲裁に入るという大事件となった。
その極道人生の出発点から破天荒であった。
昭和27年に大阪へ出て、知り合って遊んだ連中が、明友会(大阪鶴橋を根城とした愚連隊)の幹部たちだった。その中のひとりが、のちに田岡一雄襲撃事件を起こし、騒動はやがて明友会抗争へと発展する。自分自身も右翼ともめたり、 売春宿の経営者を刺傷するなど三度の逮捕を経験した。
その後、京都へ進出して兄弟分・岡田龍之介と出会い、岡田の兄貴分である伊藤晃(東声会伊藤興業初代)の子分となって東声会入りした」 ……殺しの軍団・柳川組をはじめとした山口組系組織などが、躍起になって京都進出を果たそうとしており、地元組織との軋轢は、のちに木屋町事件となり、地元組織の最高幹部(その後、当代親分)と、柳川組・谷川康太郎(その後、二代目柳川組組長)は兄弟盃を交わす。
谷川康太郎は、唐田知明が兄弟分を庇うため、 自らの小指を噛み千切って放り投げた人物で、その後、小指の処遇に納得しない唐田氏は襲撃未遂事件起こす。柳川組の戦闘隊長として伝説となった侠でもある。この盃の結縁が、あの北陸戦争を生むのであった。
唐田氏:「あの頃の柳川組京都事務所は木屋町通りにあった私の自宅だったんです。いつの間にか柳川組の事務所みたいになっていました。明友会事件もだが、どうもそういう連中と仲良くなってしまうようで、二丁拳銃を腹に傍若無人に闊歩する私は、地元組織にとっては目の上のタンコブでもあったようです。数々の問題を起こして五度の破門絶縁と関西所払いを受けました。京都に戻ったのは昭和36年、私はのちに東声会京都支部長に任命されることになるんです」
京都木屋町周辺、この界隈で対立組織との大立ち回りを演じた唐田知明の刃傷沙汰は、相手組織のみならず所属組織をも驚かせ、唐田はついに破門関西所払いとなる。唐田氏が業界を驚かせた事件は多い。
① 住吉一家大日本興行銃撃事件
② 柳川組二代目・谷川康太郎襲撃未遂事件
③ 人気絶頂期のアントニオ猪木を拉致監禁
④ 破門絶縁5回
⑤ 柳川組とのいざこざのケジメから自らの小指を食い千切る
島田紳助と庭師の件で揉め、島田紳助に極心連合会の名前を出され因縁を付けられるが、翌日、島田紳助が電話にて唐田氏に謝罪。
唐田氏が怒った理由は島田紳助が、庭師に無理な日程で作業しろと命令し、あげく事故発生したら、しらん悪いんはお前らや、プロ違うんじゃなど、造園業者に毒ずいたから。さらに、見舞いも行かず造園料金も、人の庭で怪我さらして、ケチつけたなどと言い、値切ってきたらしい。
<実際のインタビュー映像>
インタビュー映像では語られていない島田紳助とのエピソード
ミネヤ屋に唐田氏が出演
8年前、紳助邸で庭師が足を切断する事故があった。紳助は見舞いにもいかなかった。それを聞いた唐田氏が紳助邸を訪問すると・・・
紳助:「タカリに来たんか!ウチには極心会の若いもんが出入りしとるんで!」
唐田氏、ぶちキレる
後日、唐田氏の素性を知った紳助はガクブルで電話
紳助:「唐田さんですか?先日は大変申し訳ありませんでした。 おっしゃるとおり見舞いにも行きますし・・・」
ミヤネ屋のインタービューによると、唐田氏は暴力団元幹部だということは紳助には明かしていなかった。文句を言いに行った時、紳助と口論になったけど、次の日、近所の人から唐田氏が暴力団の元幹部だということを聞いて、紳助がすぐ怪我した人のとこに金持っていって、唐田氏に電話で謝罪してきたらしい。