2015年8月29日土曜日

伝説のヤクザ・熊谷正敏組長

熊谷 正敏(くまがい まさとし)は、宮城県仙台市出身の日本のヤクザ。稲川会碑文谷一家熊谷組組長。



来歴
若くして鋭敏な国際感覚を備えていた熊谷正敏は、稲川裕紘三代目に目をかけられ史上最年少で稲川会直参組長に昇格した。32歳にして専務理事という稲川会史上最年少のレコードを記録。1996年には東京品川区武蔵小山貸元を襲名。貸元襲名披露には、稲川会はもちろん五代目山口組からも錚々たる親分衆が出席したほか、韓国・全羅道の組織関係者、香港の14K、新義安関係者といった異色の来賓も出席。熊谷正敏の人脈の幅広さを伺わせた。

2005年に稲川三代目が急逝。2006年の跡目問題で、碑文谷一家は熊谷正敏を筆頭に稲川英希を推薦。しかし、稲川英希の引退により三代目稲川裕紘に対して筋を通した熊谷正敏は四代目体制では代表幹部に降格。

2012年5月五代目 - 清田次郎会長から盃を受け再度直参に返り咲き。 一家、組織のために我を捨てることを自らの哲学とする親分である。 湛然不動として騒がず、経済・経営関係をシノギとするインテリ系ヤクザと言われる一方で、古き良き任侠味のある親分としても有名であり、その面倒見の良さと若さゆえ多くの子分はもちろん地元の堅気の人までにも慕われている。

海外とのパイプ
海外に目を向けるようになったきっかけについて雑誌のインタビューで「日本人は井の中の蛙みたいなところがある。もちろん自分も含めて。そして集団になると強いけど、一人じゃ何も出来ないと揶揄される。次第に日本人一人でも何かできるんだということを示したいという気持ちが強くなった」と答えている。(実話時代BULL 1999 12月号)

香港のマフィアとのちょっとしたいさかいが、海外とのパイプを構築するに至ったきっかけとなった。7,8名の現地のマフィアを前に単独で一歩も引かない態度を認められ、喧嘩相手のマフィアから兄貴分を紹介される。その兄貴分の上の人物、またその上と人間関係の輪が広がり、ビジネスを持ちかけられるようになる。海外に出ても日本のヤクザという意識の強い熊谷正敏は、酒の飲み方ひとつでも、事前に断りを入れ、日本の流儀を通した。

中国マフィアについて「ヤクザと愚連隊が違うように、マフィア組織の人間と不良外国人たちは全く別のもの。それを混同するのは大きな間違いだ。香港や台湾にはきちんとした組織があって、彼らには日本に進出しようという意志はない。日本で事件を起こしマスコミなどで騒がれている不良外国人はマフィアとは違う。どんな形でも不良外国人と手を組むのは自分で自分の首を絞めるようなものなんだ」と発言している。(実話時代BULL 1999 12月号)

映画出演
2008年ジャン=ピエール・リモザン監督によるヤクザの日常を綴った『Young Yakuza』に出演した事で海外にもその名を広く知られるようになる。

この作品はヤクザの日常を描いた作品ではあるが、描かれているのは日本人的な人と人の絆であり、厳しいしきたりの影に隠された言葉で語り尽くせぬ想いや、語られぬゆえに滲む美しさである。日本では未公開だが、本国フランスではアニエス・ベーがこの映画のためにオリジナルのTシャツを制作するほどで、フランスでのヤクザ社会独特の文化に対する注目の高さが伺われる。

北野武と蓮實重彦の対談作品でも知られるジャン=ピエール・リモザンは北野武の映画に触発されてこの映画の構想を思いつき、フランスでのパーティー会場で知り合った熊谷正敏にこの映画の制作を打診した。

熊谷正敏はそれ以前にもフランスの著名な映画監督ジャン=ジャック・ベネックス監督から映画への出演を打診されているが、その時は断っている。ジャン=ピエール・リモザンに限り、映画への出演を受諾した理由の詳細は不明。

この作品は2007年度カンヌ映画祭ドキュメンタリー部門に出品され熊谷正敏は、カンヌのレッドカーペットを歩いた史上初の現役ヤクザということになる。

参照元 : wiki/熊谷正敏




稲川会とは



稲川会(いながわかい)は、東京都港区六本木に総本部を置く日本の指定暴力団。構成員は約4700人。準構成員を含めると約9100人。鶴岡政治郎網島一家二代目総長の代貸であった稲川角二が1949年に静岡県熱海市の山崎屋一家を継承するとともに「稲川組」を結成。それから各地に勢力を拡大しつつ、「鶴政会」、1963年に「錦政会」、1965年に「稲川一家」と順次改称。そして1972年をもって「稲川会」へ名を変えた。

■来歴
1949年4月、稲川角二(のちの稲川聖城)が静岡県熱海市咲見町[7]で「稲川組」を結成。事務所の看板を「稲川興業」とした[8]。その後、「鶴政会」、「錦政会」、「稲川一家」と名称変更を経て、現在の「稲川会」となった。

1985年に石井隆匡を会長に据える二代目体制が発足。さらに1990年に稲川聖城の実子にあたる稲川裕紘が三代目会長に就任。

2005年に角田吉男が四代目体制を発足させた。同年10月には稲川会二代目山川一家若頭・内堀和也が、六代目山口組二代目弘道会若頭・竹内照明と五分の兄弟盃を交わした。その際の後見人は山口組若頭・髙山清司と清田次郎。取持人は双愛会・塩島正則本部長(のち双愛会六代目会長)で、媒酌人は水野四郎であった。

2010年には会長の角田吉男が東京都内の病院で死去。死因は膵臓癌とされた。77歳であった。そして同年に清田次郎を首領に据える五代目体制が発足し現在に至っている。

2013年1月23日、アメリカ合衆国財務省は稲川会と清田次郎会長と内堀和雄理事長を金融制裁の対象に指定した。

■歴代会長
初 代 - 稲川聖城
二代目 - 石井隆匡(五代目横須賀一家総長)
三代目 - 稲川裕紘(二代目稲川一家総長)
四代目 - 角田吉男(五代目京葉七熊一家総長)
五代目 - 清田次郎(二代目山川一家総長)

■稲川会組織図



五代目稲川会 会長 - 清田次郎氏
五代目稲川会 会長 - 清田次郎氏
会 長 - 清田次郎

◆◆◆執行部◆◆◆
理事長 - 内堀和也(三代目山川一家総長)
副会長 - 金澤伸幸(八代目横須賀一家総長)
幹事長 - 小原忠悦(三代目三日月一家総長)
本部長 - 遠藤通夫(相模一家総長)
組織委員長・南関東地区統括長 - 吉原勝彦(六代目七熊一家総長)
渉外委員長・東海地区統括長 - 山崎功二(七代目大場一家総長)
懲罰委員長・東北地区統括長 - 遠藤貴嗣(紘龍一家総長)
慶弔委員長・東京地区統括長 - 國近哲也(七代目三本杉一家総長)
運営委員長・神奈川西地区統括長 - 戸上光雄(紘城一家総長)
諮問委員長・神奈川東地区統括長 - 鈴木政行(二代目杉浦一家総長)
会長室室長 - 木川孝始(習志野一家総長)
会長室副室長 ・北関東地区統括長- 小谷野一郎(八代目八木田一家総長)
理事長補佐 - 馬場知己(七代目佃政一家総長)
理事長補佐 - 小松 昭(七代目一之瀬一家総長)
執行部 - 池田龍冶(三代目山川一家若頭 池田組組長)
執行部 - 中島順成(二代目中島一家総長)
執行部 - 沖 勝彦(二代目山瀬一家総長)
執行部 - 坂井繁生(四代目森田一家総長)
執行部 - 鈴木郁夫(七代目田中一家総長)
事務局長 - 齋藤孝一(七代目三本杉一家慶弔委員長)

◆◆◆舎弟◆◆◆
名誉顧問 - 和田嘉雄
最高顧問 - 中島唯雄
顧 問 - 富山正一
顧 問 - 金森豊二
常任相談役 - 西山 輝(十代目碑文谷一家総長)
常任相談役 - 小林山水(三代目山梨一家総長)
常任相談役 - 水野四郎(五代目木暮一家総長)
常任相談役 - 井積宏之(四代目越路家一家総長)

◆◆◆直参◆◆◆
中村 豪(六代目箱屋一家総長)
加藤全久(十四代目大草一家総長)
荒木功年(荒木一家総長)
小林勝彦(裕統一家総長)
泉 孔二(三代目山川一家総長代行 泉組組長)
滝口武志(五代目実籾一家総長)
豊川敏雄(五反田一家総長)
小沼武夫(小沼組組長)
中島末継(岐阜一家総長)
沖田勝吾(二代目富澤一家総長)
松田晃昇(七代目千住一家総長)
加藤勝朗(奥州加藤一家総長)
今井誠勝(五代目八王子一家総長)
東 鉄夫(東一家総長)
石田謙次(七代目仲新田一家総長)
根塚邦明(四代目加藤一家総長)
山形平四郎(五代目柴田一家総長)
山田剛士(倉澤一家総長)
石井堅三郎(十代目江戸屋一家総長)
高橋勝利(高橋組組長)
砥川隆司(二代目杉浦一家総長代行 砥川組組長)
平 憲雄(八代目横須賀一家幹事長 平組組長)
貞方留義(三代目埋地一家総長)
西山昇二(十代目碑文谷一家組織委員長 三代目西山組組長)
近藤新一(六代目七熊一家総長代行 近藤組組長)
秋田 昇(六代目七熊一家若頭 秋田組組長)
河本一夫(八代目横須賀一家本部長 河本組組長)
岩崎一哉(二代目早川組組長)
出川健二(出川組組長)
西原平治(二代目杉浦一家総長補佐 西原組組長)
小林喜八郎(小林組組長)
東 重欽(三代目東組組長)
日永孝三(七代目相ノ川一家総長)
宮一基之(五代目上州共和一家総長)
坂井昭彦(二代目前橋一家総長)
勇 菊龍(九代目堀井一家総長代行 勇組組長)
高田燿山(高田一家総長)
渡邊英毅(二代目稲秋一家総長)
高島英成(三代目山川一家総長補佐 高島組組長)
瀬戸正昭(十一代目小金井一家総長)
渡邊慎丈(二代目松本一家総長)
松尾次郎(五代目林一家総長)
君田 徹(六代目親之助一家総長)
栗林 力(四代目巽一家総長)
熊谷正敏(十代目碑文谷一家執行部 熊谷組組長)

■政界との関係
東京佐川急便事件の公判過程で自由民主党と暴力団の関係が浮上。自由民主党の総裁選に絡み右翼団体日本皇民党や安倍派、中曽根派から攻撃を受けていた事件(皇民党事件)で竹下政権が東京佐川急便社長の渡辺広康を介し稲川会の石井隆匡会長に仲介を依頼、事件の解決を図った。

小泉純一郎元首相の選挙対策本部長である竹内清(前神奈川県議会議長)は稲川会横須賀一家の系列組員であり、石井隆匡と非常に親しく、上下関係の厳しいヤクザの世界にあって葬儀で最初に焼香するなど、肩書きこそ堅気という事になってはいたが非常に密接な関係であった。また息子の小泉進次郎と共に写っている写真が掲載されるなど、小泉父子の選挙区であり、横須賀一家の本拠地でもある神奈川県横須賀市では、両者の結びつきはきわめて強い。

以下略

参照元 : 【日本三大暴力団組織】稲川会・naverまとめ

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