2018年11月2日金曜日

来年1月に判決 大物女優に対し恐喝未遂罪で起訴された元暴力団組長(74)の公判 暴力団と芸能界の関係

「大物女優恐喝未遂」裁判で垣間見えた元暴力団組長と芸能界の関係 判決は、来年1月

2018年11月1日


この裁判に注目する理由
東京地裁立川支部で、現在、2012~15年にかけて60代の大物女優に対し「貸金がある」として、4600万円を要求、恐喝未遂罪で起訴された元暴力団組長(74)の公判が行なわれている。

裁判は大詰めを迎えており、9月20日、大物女優の証人尋問が行なわれ、10月29日に元組長の被告人尋問があった。今後、11月20日に検察官の論告求刑があり、来年1月、判決が言い渡される。

被告は、神戸の独立系組織・松浦組の笠岡和雄二代目組長である。同時に、右翼団体・大日本新政會の総裁を務めていたが、事件化前の16年末、組長を引退、組は解散し、大日本新政會も活動を停止した。

私がこの裁判に注目しているのは、笠岡被告が戦後暴力団史の生き字引的存在で、所作も発想も行動も、「ヤクザらしいヤクザ」で、その価値観のまま返済を迫ったら、暴力団を許さなくなった世相を踏まえた司法に、厳しく断罪されようとしているからだ。

同時に、笠岡被告が、暴力団がかつては芸能界と「持ちつ持たれつの関係」にあることを知る生き証人であり、恐喝未遂事件の背後には、大物女優を支援した「芸能界のドン」と呼ばれる周防郁雄氏(77)の姿があり、「消えゆく暴力団」を追うには格好のテーマだった。

笠岡被告が暴力団の世界に足を踏み入れたのは、1960年、16歳の時である。広島の岡組幹部・網野光三郎の系列組織組員となった。東映映画『仁義なき戦い・広島代理戦争』で描かれた時代の稼業入り。映画で網野役を務めたのは俳優の成田三樹夫だった。

その後、殺人罪で懲役も経験、縁あって移り住んだ京都で松浦組初代と出会い、組員となった。松浦繁明初代が、東映の俊藤浩滋プロデューサーと親しかったことから、松浦組は京都の東映太秦撮影所の面倒を見るようになる。具体的には、鶴田浩二、高倉健、菅原文太といった映画スターのガード役であり、撮影現場などでトラブルが発生した際の処理係だった。

38歳で大日本新政會を起こして総裁となり、42歳で松浦組二代目を継承、バブル時代を経て、その“あぶく”を享受した暴力団が、まだ法的規制をそれほど受けず、最後の輝きを見せた時代だった。

神戸市に本拠を置く松浦組は、日本一の広域暴力団・山口組に周囲を囲まれている。それでも独立を保つことが出来たのは、先代が東京の広域暴力団・住吉会と親戚付き合いをしていたからで、山口組としても「西と東のパイプ役」を期待、抗争に発展するようなことはなかった。

裁判の中身
私と笠岡被告の付き合いは、大日本新政會が立ち上げたホームページで、芸能事務所や放送局、著名タレントのスキャンダルを、怖い者なしの筆致で糾弾、『週刊文春』が「文春砲」を放つ際のネタ元になっていた時からなので、6年ぐらい前からである。

筋を通し、理解してもらえれば、何でも腹蔵なく語るし、その価値観は、義理人情を起点とするもので、わかりやすかった。ただ、裏切りと感じ、「(敵対する)反目に回った」と意識したときの攻撃は凄まじく、そこはやはり暴力団の組長だった。

公判で明かされた大物女優との関係、右翼の車を使った街宣活動やホームページでの周防氏への攻撃は、信頼が裏切りに転じた時の怒りから発している。攻撃を受けた側は理不尽と感じるが、笠岡被告の論理からすれば、「借りたものを返さないのが悪い」のであり、それが両者との民事刑事の争いとなっている。

芸能一家で、亡くなった元夫が著名な映画スターで、本人も根強いファンを持つ大物女優は、昨年9月23日、笠岡被告ら3名の恐喝未遂容疑での逮捕時は実名報道されたが、刑事訴訟法に基づく「被害者特定事項」を法廷の場で明らかにしない決定により、裁判では徹底的に伏せられた。

事件はシンプルである。大物女優が代表を務める京彩という会社が、笠岡被告がオーナーの大翔という会社から1億円を借り、共同代表の男性が返済を続けていたものの、経営不振で支払えず、男性は自己破産。笠岡被告は、返済義務は社長を務めていた大物女優にあるとして、恐喝紛いの催告書を何度も出し、15年5月には、大日本新政會構成員が自宅に押し寄せ、返済を迫ったというもの。

9月20日、法廷には姿を見せず、裁判内の別室で証言するビデオリンク方式で出廷した大物女優は、「社長になったのは、元夫からいわれたからで経営にはタッチしておらず、だから1億円の借金のこと知りません」と、訴えた。同時に、子供のプライバシーについて書かれた手紙を催告書に添付され、「スキャンダルは芸能人にとって致命的。恐ろしいと思った」と、語った。

大物女優が刑事告訴したのは、15年の9月である。自宅に押し寄せるという実力行使を受けて4カ月が経過。時間がかかったことについては、こう説明した。

「被害届を出すかどうか悩んだのは、公判になって公になるのが怖かった。また仕返しがあるんじゃないかと思いました。それでも告訴に踏み切ったのは、ある方から電話があり、『自分も被害者。一緒にやっていこう』と、誘われたからです」

その「ある方」が、周防氏だった。周防氏は、自分の弁護士を紹介するから訪ねるようにいい、大物女優はその指示に従ったという。この時点で、「芸能界のドン」と大物女優との思惑が一致、そこに笠岡被告の言動に関心を寄せる警視庁町田署捜査幹部の狙いが重なって、17年9月の逮捕につながった。

民事での責任追及もはじまる
笠岡被告と周防氏との出会いと別れもまた、「芸能界と暴力団」の終焉を象徴するものだろう。笠岡被告によれば、2人の関係は、映画スターと大物女優の息子を芸能界でブレイクさせるために、笠岡被告が周防氏にプロダクション入りを頼んだのがきっかけだったという。

次に頼られたのが笠岡被告。これも笠岡被告によると、01年5月6日、周防氏の事務所に銃弾が撃ち込まれ、「会長、たいへんです!」と、都内ホテルに宿泊していた笠岡被告の部屋に、周防氏が飛び込んできたという。以来、東京で事務所や住居を用意され、10年頃まで関係が続いた。事業パートナーであり、ボディガードだったと述べている。

関係遮断は、千葉で周防氏が行なっていた産業廃棄物処理場の建設計画が行き詰まり、資金支援していた笠岡被告との間でトラブルになったからだ、という。笠岡被告の攻撃は激しく、街宣活動やホームページで先鋭化。やがて「周防とその関係者」にも攻撃は及び、それがマスメディアで評判になって、笠岡被告は芸能マスコミで知られる存在となった。

攻撃に対して周防氏サイドは、街宣禁止の仮処分を打つなど、様々な形で抵抗するものの、効果はなかった。また、笠岡被告は、14年5月、都内のマンションを借りる際、暴力団構成員という身分を隠していたとして詐欺罪で町田署に逮捕されるが、処分保留で釈放され、攻撃が止むことはなかった。

しかし、周防氏は大物女優のいうように、水面下で「笠岡逮捕」に向けた攻撃を仕掛けていた。同時に、ホームページ上の攻撃は耐えていたものの、17年7月、『狼侠』という自伝が上梓され、その半分近くが自身に関する記述だと知ると、すぐに名誉毀損訴訟を起こした。その直後の逮捕もあって、公判は進んでいないが、民事での責任追及も始まる。

被告人尋問で、弁護士から「裁判所にいいたいことはないか」と、促された笠岡被告は「俺に何の悪いことがあるの」「貸したものを返せといっただけなのに、何で逮捕されなあかんの」と、述べた。

半世紀近くをやくざとして生き、その道しか知らず、筋を通していると考える笠岡被告は、そう述べざるを得ない。一方で、大物女優の夫の映画スターと笠岡被告には蜜月の時代があった。裁判所は、そうした歴史を考慮するのか。あるいは国と行政を挙げて、暴力団を追い詰める世相に配慮した判決を下すのか。それとも恐喝未遂か否かだけ判断するのか。

それが、私がこの裁判を注視する理由である。

参照元 : 現代ビジネス








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