2017年5月9日火曜日

武闘派組織・神戸山口組の中核団体「山健組」の歴史

山口組分裂で注目 最強の武闘派組織「山健組」の歴史

2017.05.08 07:00



4月30日、六代目山口組を飛び出して発足した神戸山口組から、山健組の傘下だった約30団体が脱退「任侠団体山口組」を旗揚げした。今回の分裂劇は、神戸山口組の中核団体である山健組が割れたことに衝撃が走った。山健組といえば、かつて〈山健にあらずんば、山口組にあらず〉とまで言われた最強の武闘派組織である。

三代目山口組・田岡一雄組長の秘書兼ボディガードを務めていた山本健一氏が山健組を結成したのは1961年のこと。山本氏は田岡組長の寵愛を受け、1971年には三代目山口組の若頭に就任。それ以来、山健組は山口組抗争の先頭に立ち続けた。

特に有名なのが、大阪・松田組との「大阪戦争」だ。1978年、田岡組長が京都のクラブ「ベラミ」で松田組系組員から銃撃されたことで、山本氏の怒りが爆発。保釈中の身でありながら、松田組に対し容赦のない攻撃指令を出した。渡辺芳則・健竜会会長ら山健組の幹部が、松田組系組員を次々と銃撃。渡辺会長の子分だった井上邦雄・健竜会理事長補佐は、和歌山市内で2人を射殺した事件の首謀者として、懲役17年の服役生活を送った。

こうした“戦績”から山本氏は田岡組長の後の四代目山口組を継ぐと目されていたが、1981年に田岡組長が逝去すると後を追うように翌年、肝臓疾患で病死。しかし残された山健組幹部らは山口組の主要ポストを占め、山健組を継いだ渡辺氏は五代目山口組組長まで上り詰めた。

ところが、渡辺氏の引退後、弘道会出身の司忍組長が六代目を継ぐと、弘道会が山口組の中で山健組を凌ぐ影響力を持ち始める。山健組を継いだ井上氏はそうした状況に不満を抱き山口組を離脱、神戸山口組を結成した。

※週刊ポスト2017年5月19日号

参照元 : NEWSポストセブン





山健組



四代目山健組(やまけんぐみ)は、兵庫県神戸市中央区に本部を置く暴力団で、神戸山口組の二次団体。構成員の総数は警察当局により約4000人。本部直参は約78人、構成員は約2000人、準構成員は約2000人、山口組において、一時は「ヤマケンにあらざれば、ヤマグチにあらず」と言われるほどの勢力を誇った。2015年の山口組分裂により、新団体神戸山口組を結成し、同団体の中核となっている。



来歴 愚連隊を源流としている。三代目山口組(組長・田岡一雄)の若衆・山本健一が1961年に結成。 山本はその後、山口組若頭補佐に就任し、1971年に山口組若頭・梶原清晴が海難事故で急逝すると、その後任に就任した。 その際、山本健一と、同じく若頭補佐の山本広による決選投票が行われ、投票の結果一度は山本 広に決定したが、山本健一の直訴により田岡から山本健一が指名された。

田岡の山本健一への寵愛ぶりは有名で、山本健一自身は田岡の後継者と目されながらも田岡の後を追うように病死したが、死後も山本健一の遺志をふまえ、山健組の出身者は山口組の主要ポストに起用されていった。1984年に四代目山口組組長に就任した竹中正久は、直参昇格間もない二代目組長渡辺芳則を異例の早さで若頭補佐に抜擢した。

渡辺は翌1985年1月、竹中とともに山口組若頭・中山勝正が暗殺されると、2月に編成された暫定執行部体制の下で後任の若頭に就任し、直参昇格から3年足らずの間に山口組ナンバー2の座まで上ることとなった。のちに六代目山口組体制において高山清司が直参昇格からわずか4ヶ月で若頭に就任し、この記録を破っている。

1989年に渡辺が五代目山口組組長に就任すると、三代目を継承した桑田兼吉の他、中野会会長・中野太郎ら最高幹部10人が同年のうちに本家(山口組)直参へ昇格、翌90年には桑田と中野が山口組若頭補佐に就任して山健組の勢力を磐石なものにし、山口組内の最大派閥へと押し上げた。

2003年、桑田の懲役7年の判決が確定すると、若頭・極心連合会会長橋本弘文を組長代行に昇格させ、四代目健竜会会長・井上邦雄を後任若頭とする組織改編を行った。 2005年、橋本と前舎弟頭の相談役・太田会会長太田守正が本家直参へ昇格し、橋本は山口組若頭補佐に就任した。

2005年、司忍を首領に据えた六代目山口組が発足すると、桑田が引退し若頭・井上邦雄が4代目を継承、井上は山口組幹部(「幹部」という名称の役職)に就任した。同年11月には、舎弟頭・木村會会長木村阪喜と舎弟頭補佐・大同会会長森尾卯太郎が本家直参へ昇格した。さらに同年12月には、井上が幹部から山口組若頭補佐兼阪神ブロック長に昇格・就任している。

六代目体制下にあっても山口組の最大派閥であり執行部メンバーも輩出しているが、同体制の司忍組長、高山清司若頭がともに弘道会出身であることから、山口組内では弘道会の発言力が増してきていた。

山口組離脱・神戸山口組結成
2015年8月、山口組六代目司忍組長の名古屋市の出身母体「弘道会」を中心とした組織運営に不満を募らせ、山健組を含む下部団体が離脱に動き始めたことから、山口組執行部側から離脱派の組長10数人が絶縁・破門の制裁処分を受けた。これを受けて山健組は他の離脱派の団体とともに新団体神戸山口組を組織し、四代目山健組組長井上邦雄が、神戸山口組組長に就任した。

2017年4月30日、山健組の副組長であった織田絆誠が神戸山口組を離脱し、新たに任侠団体山口組を組織した。

歴代組長
初代(1961年 - 1982年):山本健一(三代目山口組若頭)
二代目(1982年 - 1989年):渡辺芳則(初代健竜会会長)
三代目(1989年 - 2005年):桑田兼吉(二代目健竜会会長)
四代目(2005年 - ):井上邦雄(四代目健竜会会長)

執行部



その他の組員
舎弟
砂子宜優(砂子会 会長)
和田茂平(和田組 組長)
藤田一夫(東龍連合 組長)
疋田春男(疋田組 組長)
福原辰広(邦楽会 会長)
山田浩二(愛誠会 会長)

幹部
酒井康夫(酒井組組長)
西住孔希(邦竜會会長)
山之内健三(誠竜会会長)
橋本憲一(橋本会会長)
中村啓一(二代目南進会会長)
池田真吾(池田会会長)

若中
小林 茂(五代目健竜会副会長 小林会会長)
山田光竜(光竜会会長)
田中 守(田中興業総長)
岡本朝夫(岡本事務所総長)
小木野徹
牧野元義(牧野興業総長)
松岡昌幸(勢道会会長)
池田 修(池田総業組長)
大石真人(大真会会長)
矢野英昭(二代目本江組組長)
牟田秀次郎(牟田一家総長)
樺山典正(樺山総業総長)
金岡英二(金岡組組長)
竹内正夫(二代目竹内組組長)
永野一雄(國竜会会長)
石川正勝(二代目川村会会長)
元満志郎(二代目安倍組組長)
西岡義明
亀瀧一朗(亀瀧連合会長)
野崎秀夫(四代目伊藤会会長)
松下功(五代目紀州連合会会長)
福富弘(健仁会会長)
五十嵐善彦(善盛会会長)
高山秀樹(高山実業組長)
笹川啓三(二代目鷲坂組組長)
石澤重長(石澤組組長)
出崎勉由(四代目春駒組組長)
福田康廣(福田組組長)
斉藤浩一(二代目宮鉄組)
原重明(三代目今倉組)
岩崎尚介(二代目道志会会長)
加茂輝幸(輝侠会会長)
沖征史(沖征興業組長)
河合哲男(天網会会長)
田中勝彦(二代目矢倉会会長)
菊池右祐(二代目北竜会会長)
山本實(二代目橘会会長)
土屋清嗣(二代目兼生会会長)
関戸政信(二代目太成会会長)
島田潔希(二代目兼昭会会長)
坂上明弘(三代目石湊会会長)
植野雄仁(二代目兼一会会長)
松岡武(四代目西川会会長)

主な出身者
二代目 舎弟頭・浅川一實(浅川一家総長) - 後に五代目山口組若中
二代目 若中相談役・松下靖男(松下組組長) - 後に五代目山口組若中
二代目 若中相談役・杉秀夫(健心会会長) - 後に五代目山口組若中
二代目 舎弟頭補佐・中野太郎(中野会会長) - 後に五代目山口組若頭補佐
二代目 舎弟頭補佐・盛力健児(盛力会会長) - 後に六代目山口組若中
二代目 舎弟頭補佐・松本敏久(松本組組長) - 後に五代目山口組若中
三代目 舎弟頭補佐・根本辰男(二代目川内組組長) - 後に六代目山口組若中
三代目 舎弟頭補佐・中村伍男(中村組組長) - 後に六代目山口組若中
三代目 舎弟頭補佐・鈴木秀具(鈴秀組組長) - 後に五代目山口組若中
三代目 舎弟・大関大(二代目大門会会長) - 後に五代目山口組若中
三代目 舎弟・前田英明(二代目北岡会会長) - 後に五代目山口組若中
三代目 舎弟頭・金澤膺一(金澤組組長) - 後に臥龍会会長、五代目山口組若中
二代目 若中・井奥文夫(井奥会会長) - 後に中野会会長代行、六代目山口組若中
二代目 若中・岡本久男(岡本組組長) - 後に二代目松下組組長、六代目山口組若中
三代目 組長代行・橋本弘文(極心連合会会長) - 後に六代目山口組若頭補佐
三代目 相談役・太田守正(太田興業会長) - 後に太田会会長、六代目山口組若中
四代目 舎弟頭・木村阪喜(木村會会長) - 後に六代目山口組若中
四代目 舎弟頭補佐・森尾卯太男(大同会会長) - 後に六代目山口組若中

参照元 : wiki/山健組

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