2015年11月17日火曜日

広域暴力団二次団体に所属した元ヤクザの瀧島祐介氏が、現代カタギとして生きていくことの困難さを語った

元ヤクザが語るカタギに戻ることの難しさ 「個人では何もできない者もいる」

2015.10.08

現在、分裂騒動で揺れる日本最大の暴力団組織・山口組。連日、週刊誌や夕刊紙を賑わす報道に対し、元ヤクザはどのような思いを抱いているのだろうか。

かつて広域暴力団二次団体に所属し、先日ポール・マッカートニーとの獄中でのエピソードを綴った『獄中で聴いたイエスタデイ』(鉄人社)を刊行した瀧島祐介氏に、近年のヤクザを巡る報道、現代でカタギとして生きていくことの困難さを聞いた。

◆シャバに出てきて釜ヶ崎へ

――山口組の分裂騒動を含めて社会から厳しいまなざしが向けられるヤクザ業界ですが、かつてのヤクザを取り巻く状況はどのようなものでしたでしょうか。

瀧島:1963年にある事件で長崎刑務所に入った時、3年2ヶ月の服役を終えてシャバに出てきたら、所属していた組が解散していたんですよ。それでとりあえず大阪の釜ヶ崎に向かいました。今と違って、稼げる仕事がいくらでも転がってましたから。たまたま開いたスポーツ新聞で兄貴分の名前を発見して、会いに行ったんです。これがきっかけですぐに仕事に就くことができました。しかし、それは今では難しいでしょう。



瀧島氏がシャバに出てきて始めた仕事はストリップ劇場のスタッフだった。

瀧島:ヤクザであることで仕事に支障はありませんでしたね。まあ、遊んでいたようなものですよ(笑)。

その後、瀧島氏は再び獄中に入ることになる。1980年、フィリピン・マニラでの殺人事件に絡み、懲役15年の実刑判決が下される。

1995年に出所後、彼は再び極道の世界に戻るが、2000年に組を外れた。

――組を外れるときにトラブルにはならなかったのでしょうか?

瀧島:私は「特別参与」という上の立場で組にいたのでトラブルはなかった。しかし、若手となるとそういうわけにはいかないでしょう。それでもトラブルにならないケースは、大抵トップの度量によるところが大きいです。

――「トップの度量」というのは?

瀧島:よいトップというのは人情味のある人。包容力があって子分を自分のこどもようにかわいがる人です。野球の監督で言ったら、今のロッテの伊東監督は度量が大きい。ああいうのがヤクザになったらいいリーダーになると思いますよ。

一方で、感情を表情や動きですぐ出すリーダーはよくない。その例として瀧島氏が例にあげるのが巨人の原監督だ。

◆いまの若い人にはすすめない

暴排条例以降、ますます締め付けが厳しくなっているヤクザ業界。今後はどのようになっていくのだろうか。

瀧島:ヤクザは看板と組織の威力で稼ぐもん。だから、カタギになったヤクザはひとりで生きていくのは難しいし、中には何もできない者もいるでしょう。組を抜けるときに財産を没収されることもありますからね。

――いまの若い人で極道に入る人に対してどのようない印象をいだきますか?

瀧島:最近の報道を見ていればヤクザをとりまく厳しい状況がわかるはず。それなのに、極道を目指すとすれば、状況が俯瞰できていないのでしょう。仮に若者で極道に興味を持つ人がいたら、私は「絶対に入るな」と言います。

◆報道を巡るトラブルも

瀧島氏いわく、最近の山口組の分裂を巡る報道には真偽のほどが定かではない部分も少なくないという。

瀧島:私が組にいたころ、ある週刊誌の誤ったヤクザ報道によって、誤解した敵対勢力が抗争を起こしかけたケースもありましたよ。だから、こういう報道は冗談では済まない話になる。なんでも信じるのはよくない。

いずれにせよ、今後ますますヤクザを巡る状況は厳しくなると言わざるを得ない。それは、瀧島氏の声からも明らかだ。

<取材・文/日刊SPA!取材班>

参照元 : 日刊SPA!


留置番号22番、ポール・マッカートニーが警視庁の雑居房で歌った「イエスタデイ」

2015.09.29



留置番号22番、それがポールに与えられた番号だ。

ポール・マッカートニーが大麻所持容疑により日本で現行犯逮捕された。そんな衝撃的なニュースが世界を駆け巡ったのは1980年1月16日のことだった。



ポールはウィングス日本公演のために家族と一緒に来日したのだが、スーツケースに入れて持ち込んだマリファナが成田空港の税関で発見された。

東京・中目黒にある関東信越地区麻薬取締官事務所へと連行されると、心配して事務所のまわりに集まったファンが「イエスタデイ」など、ビートルズの曲を合唱していた。取り調べが終わった後で警視庁に移送されたのは、麻薬取締官事務所に留置施設がなかっためで、容疑者の勾留は警視庁に頼むことになったのだ。ポールを案じて集まったファンに取り囲まれて身動きが取れないために、移動の際には機動隊に出動を要請してファンを排除する騒ぎもあった。

同じ頃、フィリピン・マニラの拳銃密輸事件にからんで仲間一人を射殺した男が殺人罪で逮捕されていた。その極道・瀧島祐介は翌日の朝、二階の一角にある名前ばかりの運動場でポールと出会う。

刑務所の受刑者とは違って留置場内の被疑者は基本的に私服であり、ポールはカジュアルなジーンズ姿だった。

瀧島が知っている英語は「ハロー」と「サンキュー」ぐらいだったが、思い切って「ポール!ハロー!」と話しかけてみると、一瞬の間があって「ハロー!」と返事があった。 そしてポールは歩み寄ってくると、笑みを浮かべて手を握ったという。

とっさに瀧島は英語のできそうな人間を探し、学生運動の過激派メンバーだった若者に声をかけて通訳を頼んだ。通訳を通じて聞いた話によると、ポールはマリファナで捕まったのだが、罪の意識がほとんどないことが分かったそうだ。

そもそもポールはスーツケースの中のいちばん上に、ビニール袋入りの大麻を無造作に置いていた。そして税関でそれを発見されて騒がれても、いっこうに悪びれるところはなかった。この件についてポールは後日の会見で、「僕はマリファナを危険なものだとは考えてないし、日本で重罪になるなんて知らなかった」とコメントしている。

しかし海外のミュージシャンにとって、日本の税関が麻薬に関して特に厳しいというのは周知の事実であり、ポール自身も75年に来日公演を予定していたものの、大麻不法所持による逮捕歴を理由にビザが取り消されてしまった過去があった。さらにはビートルズを日本に呼んだ男、キョードー東京の永島達司からも事前に電話で「マリファナは絶対にダメだ」と釘を差されていたという。

にもかかわらずなぜポールはマリファナを持っていたのだろうか。永島はポールに同行していた娘のヘザーが持ち込んだものを、父としてとっさに庇ったのではないかと推測している。だが真相は謎のままである。

話を戻そう、それはポールが出所する前日の1月24日の夜7時ごろのことだった。「五房」にいた瀧島は期待を込めて、数メートル離れた「二房」にいるボールに聞こえるように叫んだ。

「ポール!イエスタデイ、プリーズ!」

ポールが留置所を出て行く前に、どうしても歌を聴きたかったのだ。すると2人の留置係が瀧島のところに走ってきて注意し、歌は聴けずじまいかと思われた。

と、その時、奇跡が起きた。
ボールは私の声が聞こえたのだろう。
「OK!」と叫んだ直後、冷たい床の板を手と足で叩き、リズムをとり始めたのだ。
そのリズムたるや、最高であった。
(瀧島祐介著『獄中で聴いたイエスタデイ』より)

そしてポールがアカペラで「イエスタデイ」を歌い始めると、留置係もあえてそれを止めることはしなかった。

♪ 昨日まで
  あらゆるトラブルとは無縁だと思っていた
  それが今はここに留まっているみたいだ
  ああ、昨日だと信じたい

歌が終わると留置所内は拍手喝采となり、「アンコール!」の合唱が巻き起こった。

”ボールの透き通るような歌声が体に染み渡り、魂を揺さぶるようだった”と、滝島は著書の『獄中で聴いたイエスタデイ』に記している。結局、ポールは獄中でのアカペラ・ライブで4曲を歌ったという。

ポールが再び日本で「イエスタデイ」を歌ったのは、それから10年後のことだ。事件後は入国拒否となっていたポールだったが、文化的な貢献とその認知度から特別に入国許可が下りて東京ドームでのコンサートが実現した。



一方で懲役15年の実刑判決を言い渡された瀧島は、ポールに歌ってもらった「イエスタデイ」で人生観が変わったという。再びポールの歌を聴きに行くことを胸に抱いて、宮城刑務所で罪を償って更生した。

瀧島を含め、ポールの歌はその場にいた他の囚人たちにも何かしら、生きる力を与えたに違いない。

警視庁の留置所でポールと出会い、彼の歌を聴いたことがきっかけで更生した殺人犯・瀧島祐介の手記はこちらです。



参照元 : TAP THE POP




暴力団排除条例で足を洗った元ヤクザの嘆き「このまま落ちていくだけだよ」

2015年05月28日



筆者の目の前に2人の初老の男性がいる。眼光は鋭く、周辺を威圧する感じには見えるが、彼等は今はカタギだ。1人は4月11日の『ニコ生タックルズ~ヤクザとは何か』(久田将義のニコ生タックルズ)に出てもらったA氏。ヤクザ歴40年で20年以上も刑務所に務めていた人物だ。もう一方のB氏も同じ組織に属していた人物だが、事情があり10年ほど前にカタギになっている。2人とも小指がなく、今の生活は悲惨の一言だ。

現在のA氏にはヤクザを40年やっていたというのに形として残った財産は一切なく、仕事もしていない。昼間は病院などで時間を潰し、夜は友達も少ないため時間を持て余している。B氏は懲役から帰ってきたら自分の舎弟がシノギを全部奪っていて後の祭り。家族からも見放され、ドヤに暮らしている。2人とも共通しているのは生活保護で食っているという点だ。そんな二人に話を聞いた。

――ヤクザになる人間は数多くいますが、これまで自分の辿ってきた道は正しかったと思えるか?

A「間違ってましたよ、ヤクザやって何も今残ってませんから」

B「私は間違ってたとは思っていません。自分のやりたい事をやって今の結果ですから」

――2人とも正直、今の生活はあまり良くないが。

A「良くないですね、だけどヤクザやっていた時もこんなもんですよ」

――Aさんは先日、『ニコ生タックルズ』に出演した際に「いい車乗って、いい女連れて、いい服を着るためにヤクザになった」と言っていたが、実際にそんなこと出来る人間は多いのか?

B「ヤクザは見栄の商売だからね。金がなかったら外に出なければばいい。いい車乗っても金がなくなれば売ればいい。だけどそんな事したらあいつは終わった、と噂が広がるけどね」

――Bさんは懲役から出てきて、ずっと今の状態なのか?

B「出て来て帰る場所が無いから更正施設に入って......そこから今のドヤに住んでいる」

――人生を舐めていたとは思わないか?

A「今のような生活は正直、想像はしていなかったよね。くだらない事件で懲役ばかり行ってたから、下の人間には抜かされたし、後輩連中も立ててはくれてたけど、心の中ではバカにしていたとは思うよ」

B「俺は一度、組を出したんだよ、若い衆とか舎弟も数人いてね。だけど無理があったんだろうな。器量もなかったし、2年くらいで兄弟分の事務所に吸収されたよ」

――バブル時代は、30歳までに組長になれなければ、ヤクザとして見込みがないと言われていた。今は時代が変わっているとはいえ、Bさんはまだその目があったのでは?

B「焦ったんだろうな。回りがどんどん上に上がっていくか辞めていく。だけど俺はカタギになっても食っていける自信はなかったからね」

――平成4年に暴対法、それから数年経って各地で暴排条例が施行されたが、それによる影響は?

A「暴対法は痛かったな。ミカジメとか取ってた店が全部拒否して来たしね」

B「自分は金貸しもしてたけど、ヤクザ相手の金貸しだったから、そこまでの影響はなかった」

――ヤクザ相手に金を貸していて回収出来たのか?

B「懲役に行っている間に舎弟が力付けてほとんど回収したよ。俺の所にはその内の3割くらいしか戻らなかったけど」

――よくヤクザの親分で、いつまでも現役でいるのはヤクザ時代のツケが回ってくるからだと言う人がいるが、そんなケースを目にしたことは?

A「まさにうちの親分がそうだったな。資産何億あっても借金も何億もあった。それで結局カタギにはなれず、最後はに死んじまったけど」

B「関東はまだいいんだよ。跡目継承の時に跡目を継いだ人間が縄張りを買う金を渡したり、死ぬまで若い衆を付けてくれたりするから。だけど俺の知ってる関西の親分は悲惨だったな。昔の若い衆に「おい、おっさん」と言われて小突かれたり、金を取られたりとか」

A「関西は力が全てだからね」

――2人とも今後はどのようにして生きていくつもりなのか?

A「もうどうしようもない。このまま落ちていくだけだよ。ひとつ言いたいのは、ヤクザを辞めた人間の受け皿をしっかりと作ってほしいということ」

最後はこの様な言葉で終わった。若い頃に裏街道を歩いて来たのだから老後も裏街道で......と言うのは正直、酷な話だ。議論が分かれる話だが、足を洗ったヤクザには問題が山積みである。

Written by 西郷正興

参照元 : 東京BREAKING NEWS

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