指定暴力団山口組(総本部・神戸市灘区)の最高幹部にあたる「若頭補佐」らが8日夕、兵庫県姫路市安田4の直系団体「竹中組」事務所を訪れた。山口組分裂後の組織を引き締める狙いとみられる。兵庫県警は防弾チョッキ姿の警察官を事務所周辺に配置するなど厳重に警戒した。目立った混乱はなかった。
その経歴には、かつて昭和60年に一和会のヒットマンによって竹中正久四代目が射殺されたことから始まった山一抗争で、二代目山広組若頭・後藤栄治率いる後藤組の若頭を拉致、後藤組の解散に追い込み、その中心的人物として長期服役を経験したという程の典型的な武闘派組長であるが、頭は切れ、経済力にも長けており、また傘下組員からの信頼も厚いことから、彼の命令で動かない組員はいないとまで言われている。
竹中組
竹中組(たけなかぐみ)は、兵庫県姫路市に本部を置く暴力団で、神戸山口組の三次団体。上部団体は、四代目山健組。
略歴
第一期
1960年、竹中正久は、竹中組を結成して、竹中組組長に襲名した。
1961年12月13日、三代目山口組に参画した。
1971年、三代目山口組若頭補佐に就任した。
津山事件
1980年01月10日、岡山県津山市の小椋建設の事務所で、木下会系平岡組組員片岡一良と同組員池元幸男は、竹中組系杉本組組員小椋義政と小西一家系小島組組員水杉義治を射殺した。
姫路事件
1980年05月13日、兵庫県姫路市東駅前町の二代目木下会の事務所前で、竹中組若頭補佐平尾光が指揮して、同組員大西正一、同組幹部高山一夫、竹中組系岡山竹中組若頭補佐山下道夫、竹中組系杉本組輝道会若頭補佐山田一は、二代目木下会会長高山雅裕と同会員森崎右を銃撃して、高山雅裕は即死、森崎右は病院で死亡した。
1981年07月23日、三代目山口組組長田岡一雄は、死去した。
1982年、三代目山口組若頭に就任した。
1984年06月05日、四代目山口組組長に襲名した。三代目山口組組長代行山広組組長山本広は、四代目山口組の跡目争いに伴い、離脱した。
1984年06月13日、山広組組長山本広は、一和会を結成して、一和会会長に襲名した。
二代目
1984年06月23日、竹中組若頭岡山竹中組組長竹中武は、二代目竹中組組長に襲名して、四代目山口組に昇格した。
山一抗争
1985年01月26日、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、一和会常任理事悟道連合会会長石川裕雄が指揮して、一和会系二代目山広組若頭後藤栄治、同組行動隊長長野修一、実行犯の同組員長尾直美、同組員田辺豊記、同組員立花和夫は、四代目山口組組長竹中正久、同組若頭豪友会会長中山勝正、同組組長秘書南組組長南力を銃撃して、中山勝正は4時間後に死亡、南力は即死、竹中正久は大阪警察病院で、翌日死亡した。
1985年02月01日、福崎のインターチェンジで、兵庫県警機動隊と岡山県警は、野球賭博開帳の容疑で、二代目竹中組組長竹中武を逮捕して、1年5か月間拘留した。
1985年03月24日、兵庫県の甲子園球場の駐車場で、二代目竹中組系塚川組組員桃井省三は、一和会特別相談役大川覚の長男を銃撃した。
1985年10月27日、鳥取県倉吉市のスナックで、二代目竹中組系杉本組輝道会会員清山礼吉と同会員山本尊章は、一和会幹事長補佐赤坂組組長赤坂進と同組員田中義昭を射殺した。
1986年01月21日、兵庫県加古川市で、二代目竹中組系大西組組員前田哲也と同組員山本孝道は、一和会系加茂田組舎弟小野会会長小野敏文を射殺した。
1986年02月27日、兵庫県姫路市深志野の四代目山口組組長の墓前で、二代目竹中組系柴田会会員井垣道明と同会員星山勲は、射殺された。
1986年05月21日、大阪府大阪市の路上で、二代目竹中組系二代目生島組幹部北原智久と同組幹部大宮真浩は、一和会副本部長中川連合会会長中川宣治を射殺した。
1988年02月17日、兵庫県神戸市東灘区御影の路上で、兵庫県警は、竹中組若頭補佐増田組組長増田国明と同組員西浦恵信の乗車していた車内から拳銃4丁、アメリカ軍用M67型手榴弾2個、実弾25発を発見して、現行犯逮捕した。
1988年05月14日、兵庫県神戸市東灘区御影の一和会会長山本広の自宅前で、二代目竹中組組長秘書安東会会長安東美樹らは、警備中の警察官3人を銃撃した。
1988年10月01日、愛媛県松山市の全日空ホテル前で、二代目竹中組系二代目西岡組組員は、一和会系神竜会会員山下竜二を銃撃して、山下竜二は翌日死亡した。
1989年02月27日、四代目山口組若頭補佐に就任した。
1989年03月30日、一和会会長山本広は、引退と一和会の解散を表明した。
1989年04月27日、三代目山口組若頭二代目山健組組長渡辺芳則は、五代目山口組組長に襲名した。
1989年06月05日、四代目山口組若頭補佐二代目竹中組組長竹中武、四代目山口組舎弟二代目森川組組長矢嶋長次、四代目山口組若中森唯組組長森田唯友紀、四代目山口組若中二代目牛尾組組長牛尾洋二は、山一抗争終結の反対に伴い、離脱して、解散した一和会に報復を続けた。
第二期
1989年07月28日、二代目竹中組組長竹中武は、二代目竹中組から竹中組に改め、独立組織の竹中組組長に襲名して、竹菱の代紋を掲げた。
山竹抗争
一和会会長山本広の引退と一和会の解散を引き換えに、山本広の命を保証していた五代目山口組は、解散した一和会に報復を続ける竹中組を一方的に攻撃する、山竹抗争に突入した。
1990年03月05日、岡山県岡山市十日市東町の自宅で、竹中組組員熊原健裕は、射殺された。
1990年03月12日、鳥取県倉吉市のJR倉吉駅前で、竹中組幹部八栗拓一は、射殺された。
1990年06月18日、岡山県警は、解散した一和会本部長松本勝美の自宅を襲撃した首謀者として、竹中組組長竹中武を逮捕して、山竹抗争は終焉した。
1993年08月27日、山本広は、病死した。
2008年03月15日、竹中組組長竹中武は、病死した。
二代目
竹中組組長代行竹中正組組長竹中正は、空席だった二代目竹中組組長に襲名した。
2014年05月、二代目竹中組組長竹中正は、死去した。
第三期
竹中組「第二期」若頭補佐大西正一は、竹中組を離脱して、四代目山健組系五代目健竜会に参画した。二代目竜正会会長に襲名して、四代目山健組系五代目健竜会組織委員長に就任した。四代目山健組に昇格した。2015年10月、空席だった四代目竹中組組長に襲名して、四代目山健組舎弟に就任した。
歴代
第一期
初 代:竹中正久(四代目山口組組長/三代目山口組若頭)1985年01月27日死去
二代目:竹中 武(四代目山口組若頭補佐/竹中組副組長)2008年03月15日病死
第二期
初 代:竹中 武(四代目山口組若頭補佐/竹中組副組長)2008年03月15日病死
二代目:竹中 正(竹中組「第二期」組長代行/二代目竹中組相談役/竹中組副組長)2014年05月死去
第三期
初 代:竹中正久(四代目山口組組長/三代目山口組若頭)1985年01月27日死去
二代目:竹中 武(四代目山口組若頭補佐/竹中組副組長)2008年03月15日病死
三代目:竹中 正(竹中組「第二期」組長代行/二代目竹中組相談役/竹中組副組長)2014年05月死去
当代
四代目:大西正一(四代目山健組舎弟/四代目山健組系五代目健竜会組織委員長/竹中組「第二期」若頭補佐/二代目竹中組若頭補佐/竹中組若頭補佐)
構成
組長 - 大西正一
最高顧問 - 平尾 光
若頭 - 松尾 淳(三代目竜正会会長)
家系
父親:竹中龍次(養子)
母親:竹中愛子
三男:竹中正久
五男:竹中 正
八男:竹中 武
出身
佐藤組
菅谷組若頭補佐佐藤組組長佐藤邦彦は、菅谷組の解散に伴い、竹中組に参画して、竹中組舎弟に就任した。
四代目山口組に昇格した。
五代目山口組に昇格した。
佐藤組組長佐藤邦彦は、病死した。
1997年07月、佐藤組若頭細見孝夫は、二代目佐藤組組長に襲名して、五代目山口組に昇格した。
2010年05月、二代目佐藤組組長細見孝夫の除籍処分に伴い、二代目佐藤組は、解散した。
離脱
杉本組
二代目竹中組舎弟頭補佐杉本組組長杉本明政は、二代目竹中組を離脱して、宅見組に参画後、宅見組組長代行に就任した。
二代目西岡組
二代目竹中組副組長二代目西岡組組長青木恵一郎は、二代目竹中組を離脱して、宅見組に参画後、宅見組副組長に就任した。
安東会
1988年05月、二代目竹中組組長秘書安東会会長安東美樹(安妟行)は、二代目竹中組を離脱して、一心会に参画後、一心会舎弟に就任した。
2011年、三代目一心会副会長に就任した。
柴田会
1989年04月、二代目竹中組若頭補佐柴田会会長柴田健吾は、二代目竹中組を離脱して、二代目吉川組に参画した。
1991年12月、五代目山口組に昇格した。
六代目山口組に昇格した。
2014年04月、柴田会会長柴田健吾は、死去した。
2014年04月、三代目一心会副会長安東会会長安東美樹(安妟行)は、三代目一心会系安東会と柴田会を統合して、二代目柴田会会長に襲名後、六代目山口組に昇格した。
2015年09月10日、二代目柴田会から二代目竹中組に改称した。
大西組
1992年02月、二代目竹中組若頭大西組組長大西康雄は、二代目竹中組を離脱して、後藤組に参画後、後藤組副組長に就任した。
五代目山口組に昇格した。
六代目山口組に昇格した。
2008年07月、大西組組長大西康雄の病気引退に伴い、大西組は、解散した。
参照元 :
wiki/竹中組