安部譲二の人生が壮絶過ぎる件
安部 譲二(あべ じょうじ、本名:安部直也(あべ なおや)、1937年(昭和12年)5月17日 - )は、日本の小説家、漫画原作者、タレント。元暴力団員であり、自らの服役経験を基にした自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などの著作がある。
また漫画原作者としても、第51回小学館漫画賞を受賞した柿崎正澄の漫画『RAINBOW-二舎六房の七人-』などの作品がある。血液型O型。
経歴
下記、ヤクザ時代の過去については「大体、10%だけがホントで、あとは膨らました脚色ですよ」、「作家は政治屋や役人と一緒で、ホントのことなんか言うわけがねぇんだよ」とも発言している。しかし日本航空のスチュワードであった経歴については、当時の同僚の夫である深田祐介により事実であったことが証言されている。
生い立ち
祖父は造船技師で、東京帝国大学で夏目漱石や正岡子規と同期。日本郵船に勤務していた父安部正夫、母玉枝の次男(4人兄姉の末っ子)として東京市に生まれた。父の転勤に伴い、ロンドンやローマで育つ。
第二次世界大戦が始まる前に日本へ帰国。東京池田山(現・東京都品川区東五反田)の母の実家に育ち、森村学園幼稚園に通う。戦争中は熱海の祖母の別荘に疎開。軍属としてシンガポールに出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝、名将言行録などを国民学校(現在の小学校)低学年にして片っ端から読破。東京都港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。
暴力団舎弟時代
麻布中学校2年の時、江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある。また、中学在学中から安藤組大幹部の阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたため麻布高校への進学が認められず、1952年には夏祭りの場で複数のテキ屋と争い、出刃包丁による傷害事件を起こしたことから国外に逃亡した。
イギリスウィンブルドンの寄宿制学校リッジウェイス・スクール[要検証 – ノート]に進む。同校在学中、南ロンドン地区の少年ボクシング大会のライトウェルター級選手として優勝している。入寮から4ヶ月経った時、イタリアから留学中の女子生徒と全裸で戯れていたのを舎監に発見され退寮処分を受ける。16歳のときカメラマンのアシスタントとしてオランダに渡り、ロバート・ミッチャムと売春婦を巡り殴り合いをおこなったことがある。
安藤組時代
日本に戻り、慶應義塾高校に入学。同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳のとき本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生たち16人に喧嘩を挑まれて3人で叩きのめしたことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けた。
慶應義塾高等学校除籍後は神戸市立須磨高等学校や逗子開成高等学校など6つの高等学校を転々とし、安藤組組員だった時期に保善高校定時制課程に入学した。
この間、18歳のとき、横浜市伊勢佐木町へ債権の取立に行き、不良外人のブローカーと争い、初めて銃で撃たれる経験をする。19歳のときには横浜で不良外人のもとへ借金の取立に行ったところ用心棒から殺されそうになり、反撃して相手の拳銃と車を奪い逃走。
このため強盗殺人未遂と銃刀剣法違反で逮捕され、少年院から大津刑務所に身柄を移され、1審で懲役7年の実刑判決を受けたが、接見に来た今日出海らの勧めで控訴。
控訴審の弁護人の働きにより緊急避難が認められ、強盗殺人未遂から窃盗罪・遺失物取得罪・銃刀剣法違反に罪名変更され、懲役2年6月、保護観察付執行猶予5年の有罪判決を受ける。以後、「幻の鉄」の二つ名を持つ中国道の大親分のもとに身柄を預けられ、大親分の一家を守ると共に、大親分の娘と恋仲になった、という。
また、若い時期はブラディー・ナオのリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もあった(世界王者・サンディ・サドラーの来日時のスパーリングパートナーもつとめたという)。ハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたこともある。
日本航空時代
1959年に22歳で保善高校定時制を卒業。この後、神田のYMCAのホテル学校に入学。1961年1月に23歳で日本航空に入社。客室乗務員として国内線や国際線に乗務する。スチュワードからパーサーまで出世するが、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見し、1965年1月に退社に追い込まれた。
日本航空のパーサー時代は、勤務態度は真面目な反面感情的になる事も多く、同僚の彼女をぶん取って交際したり、横柄な支店長を殴ったり、乗客を投げ飛ばしたこともあったと言われている。またこの頃は、組の代紋を付けていたが、出勤する時は外していたという。
なおこの際に当時日本航空の社員で、その後作家となる深田祐介と知り合っている。なお1966年に三島由紀夫原作、田宮二郎主演で日本航空時代の安部をモデルとした映画『複雑な彼』が大映で制作、封切りされている。
小金井一家時代
1964年に安藤組が解散し、日本航空を退社した後は、新宿の暴力団の小金井一家にヘッドハンティングされる。同時にキックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営、プロモーター、レストラン経営、競馬予想屋などの職を転々とした。
特に1960年代後半から1970年代にかけて青山でジャズクラブ「ロブロイ」を経営していた時期は本店を当時の妻の遠藤瓔子に任せ、赤坂と六本木と三田の支店をそれぞれ愛人に任せ、白いキャデラック・フリートウッドを乗り回し、ドーベルマンを飼い、東京都大田区鵜の木の敷地700坪の豪邸に住むほどの勢いがあった。
この当時、「ロブロイ」でピアノを弾いていたのが当時高校生だった矢野顕子で、後に遠藤瓔子が当時を回想して書いた「青山『ロブロイ』物語」はテレビドラマにもなった。
1966年から刑務所で服役。1974年9月から半年間、ボリビア政府軍の砲艇の航海長として革命軍の村を掃射する任務にあたったこともあるという。また、1975年には南ベトナム政府軍御用達のフランス製メタンフェタミン25キログラム缶を安価に入手すべく、陥落直前のサイゴンに潜り込んだものの、一度は1500万円で購入したメタンフェタミンを群集に争奪され、命からがら脱出したこともあるという。
1975年に拳銃不法所持や麻薬法違反で実刑判決を受け、同年秋から府中刑務所で4年間服役。府中刑務所収監中に知り合った囚人の中に赤軍派(後に日本赤軍)活動家・城崎勉がおり、安部の著作によると、ダッカ事件が起きる直前、(既に獄外の日本赤軍と連絡を取り合っていた)城崎にオルグされかけたことがあったという。
作家
1981年にヤクザから足を洗うが、それまでの安部の前科は暴行傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反など日本国内だけで合計14犯、また海外でも複数回の服役を経験し、海外での前科は3犯、国内と国外での刑務所生活は通算8年間に及んだ。
1983年から小説を書き始めたが、過去の犯罪歴ゆえに著書を出してくれる出版社が見つからず、不遇をかこつ。1984年、山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に『府中木工場の面々』と題した文章の連載を開始。
1987年、刑務所服役中の体験を書いた この連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版される。『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化され、以後人気作家としての地位を築く(日本で刑務所のことを「塀の中」と表現するようになったのは、この著作の影響である)。
後に漫画作品の原作にも携わるようになり、2005年には『RAINBOW-二舎六房の七人-』で第51回小学館漫画賞一般部門を受賞した。その他に、エッセイなどの連載や『追跡』(日本テレビ系)のコメンテーター、俳優やタレントとしてなど、マルチな才能を見せている。
交友関係
交際のあった人間を『俺が痺れた男たち―日本快男児列伝』で紹介しているだけでも、安藤昇、石原裕次郎、和泉宗章、江夏豊、大川幸介、大野伴睦、金平正紀、黄金井光良、越田利成、サッド・サム・イチノセ(ダド・マリノのマネージャー)、島田丈、ジョージ川口、高本公夫、畑山隆則、花村元司、ピストン堀口(中村信一、玄海男から間接的に話を聞く)、マック鈴木、宮沢邦明、村田勝志、森田雅、山手勝、由佐嘉邦、渡辺正人とそうそうたる面々が顔を揃えている。
また裏街道の人物・団体としては「海原清平」、「岩田幸雄」、「森脇将光」、「闘鶏協会」といった名前も著書に登場する。
また、前述の深田祐介とも日本航空の社員時代に交流があったが、当時深田は安部が「帰国子女で典型的な山の手のお坊ちゃん風」であり、暴力団員でもあったことを退社に至るまで全く知らなかったという。
同学年の梅宮辰夫とは「辰ちゃん」「譲二」と呼び合う仲である。大の岡田奈々ファンとして知られる。自身原作の映画作品に出演させている。文筆家としての道を歩むきっかけになった山本夏彦との出会いに関しては、著書等で事あるごとに「山本先生は自分の恩師、大恩人である」と触れている。
元総理大臣の橋本龍太郎とは麻布中学校時代の同級生。麻布中学校の入学試験当日、頭のいい受験生の後席に座ればカンニングできると目論んだ安部は、他の受験生を品定めしたところ、橋本が一番頭がよさそうに感じその後席に座ることに成功したという。
後年、橋本と同窓会で会った際、政界に身を置くようになっていた橋本に自身と似た匂いを嗅ぎ取り、互いに都合の悪い事だけは黙して語らないことを約束したといわれる。また、橋本政権下の時代、コメンテーターとしてトーク番組で政治問題のコメントする際はいつも『俺は龍ちゃん(橋本のことを親しみをこめて)と同級生だったから』とのことでいつも自民党擁護の発言が目立った。
しかし、これは安部自身が元ヤクザのベストセラー作家でありながら橋本と同級生だったことを言いたかったちょっとしたネタであり一緒に出演していた他のコメンテーターからは特に問題視されることはなかった。
永田雅一に大変な恩義を感じており、雅一の孫でTBSラジオのディレクター、プロデューサーを歴任した永田守の頼みは断れないらしい。そのため永田守が初代プロデューサー兼ディレクターを担当した『伊集院光 深夜の馬鹿力』の番組内では、他所ではありえない扱いをされることが何度かあった(内田有紀、遠藤久美子、シャロン・ストーンの物真似を延々させ続けられる、出会い系サイトに登録してどれくらいモテるか他の出演者と競う、など。詳しくは該当記事参照)。
三島由紀夫とは親交があり、三島にボクシングジムを紹介するなどした。また当時の安部の半生を三島が小説にしたのが、田宮二郎主演で映画化もされた『複雑な彼』である。この話の主人公の名前「宮城譲二」は、その後安部が作家デビューするにあたりペンネームにもなった。
ヤクザ映画の「仁義なき戦い」の第四部「仁義なき戦い 頂上作戦」の劇中、第二次広島抗争で、全国からケンカの助っ人が広島に集結した件があるが、これに派遣された一人が、現役渡世時代の安部。安部にとってもこれは輝く実績の一つだが、劇中にもあるように実際は全面戦争にはならず、安部は暇で野球に興じていたという。
長嶋茂雄の天覧試合のサヨナラホームランも広島の親分宅で見たという。ある日、商店街の野球大会に参加して、飛ばない軟式ボールを広島市民球場の外野スタンドにたたき込んだら、商店街の会長が「親分にもよく話してやるから、広島カープの入団テストを受けてみなさい」と言われたという。野球については、阪神タイガースのファンで、子供の頃に吉田義男のボールさばきを見て大ファンになった。
子供の頃、疎開していた熱海の町内に松竹ロビンスの監督等を務めた新田恭一が住んでいて野球を教えてもらったという。これが縁で成人した安部が安藤組のアマチュア野球チームにいたおり、安部の母が「プロ野球選手になれたらヤクザをやめてもいい」と言った息子の話を真に受け、足を洗って欲しいと新田から辿って新田の慶応野球部の後輩・別当薫に安部を紹介したことがあるという。
執筆にはパソコンを使用し、ときおり2ちゃんねるやウィキペディアを見ていることを明らかにしている。また、選挙ではいつも日本共産党に投票していたが、2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党に投票し、後悔しているとも述べている。
親族
母方の祖父、梶原仲治は明治の立志伝中の人物で、山形県の福浦村で生まれて苦学して東京帝国大学を卒業し、銀行家になった。母の姉は、法学博士岸清一の長男の妻。次男はゲームソフトの原作・監督などを手がける遠藤正二朗。
<以下略>
参照元 : ウィキペディア
前科14犯は凄すぎる(笑)海外でも3犯。壮絶としか言いようがない波乱万丈な人生。中学在学中から安藤組大幹部の阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたとか(笑)
不良外人とケンカしてた話は凄すぎる。安部譲二氏は物凄く運の強い人だと思います。普通ならとっくに死んでますよ(笑)
安部 譲二(あべ じょうじ、本名:安部直也(あべ なおや)、1937年(昭和12年)5月17日 - )は、日本の小説家、漫画原作者、タレント。元暴力団員であり、自らの服役経験を基にした自伝的小説『塀の中の懲りない面々』などの著作がある。
また漫画原作者としても、第51回小学館漫画賞を受賞した柿崎正澄の漫画『RAINBOW-二舎六房の七人-』などの作品がある。血液型O型。
経歴
下記、ヤクザ時代の過去については「大体、10%だけがホントで、あとは膨らました脚色ですよ」、「作家は政治屋や役人と一緒で、ホントのことなんか言うわけがねぇんだよ」とも発言している。しかし日本航空のスチュワードであった経歴については、当時の同僚の夫である深田祐介により事実であったことが証言されている。
生い立ち
祖父は造船技師で、東京帝国大学で夏目漱石や正岡子規と同期。日本郵船に勤務していた父安部正夫、母玉枝の次男(4人兄姉の末っ子)として東京市に生まれた。父の転勤に伴い、ロンドンやローマで育つ。
第二次世界大戦が始まる前に日本へ帰国。東京池田山(現・東京都品川区東五反田)の母の実家に育ち、森村学園幼稚園に通う。戦争中は熱海の祖母の別荘に疎開。軍属としてシンガポールに出征した父の残した本箱にあったシェイクスピア全集や漱石全集、世界文学全集、プルターク英雄伝、名将言行録などを国民学校(現在の小学校)低学年にして片っ端から読破。東京都港区立麻布小学校では神童と呼ばれた。
暴力団舎弟時代
麻布中学校2年の時、江戸川乱歩主宰の雑誌にアブノーマルセックス小説を投稿し、乱歩から「この子は心が病んでいる」と言われ、北鎌倉の寺で写経をさせられたことがある。また、中学在学中から安藤組大幹部の阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたため麻布高校への進学が認められず、1952年には夏祭りの場で複数のテキ屋と争い、出刃包丁による傷害事件を起こしたことから国外に逃亡した。
イギリスウィンブルドンの寄宿制学校リッジウェイス・スクール[要検証 – ノート]に進む。同校在学中、南ロンドン地区の少年ボクシング大会のライトウェルター級選手として優勝している。入寮から4ヶ月経った時、イタリアから留学中の女子生徒と全裸で戯れていたのを舎監に発見され退寮処分を受ける。16歳のときカメラマンのアシスタントとしてオランダに渡り、ロバート・ミッチャムと売春婦を巡り殴り合いをおこなったことがある。
安藤組時代
日本に戻り、慶應義塾高校に入学。同校では体育会拳闘部の主将となったが、16歳のとき本格的に暴力団構成員となった上、早稲田大学の学生たち16人に喧嘩を挑まれて3人で叩きのめしたことが問題となり、「はなはだしく塾の名誉を汚した」との理由で1955年春に除籍処分を受けた。
慶應義塾高等学校除籍後は神戸市立須磨高等学校や逗子開成高等学校など6つの高等学校を転々とし、安藤組組員だった時期に保善高校定時制課程に入学した。
この間、18歳のとき、横浜市伊勢佐木町へ債権の取立に行き、不良外人のブローカーと争い、初めて銃で撃たれる経験をする。19歳のときには横浜で不良外人のもとへ借金の取立に行ったところ用心棒から殺されそうになり、反撃して相手の拳銃と車を奪い逃走。
このため強盗殺人未遂と銃刀剣法違反で逮捕され、少年院から大津刑務所に身柄を移され、1審で懲役7年の実刑判決を受けたが、接見に来た今日出海らの勧めで控訴。
控訴審の弁護人の働きにより緊急避難が認められ、強盗殺人未遂から窃盗罪・遺失物取得罪・銃刀剣法違反に罪名変更され、懲役2年6月、保護観察付執行猶予5年の有罪判決を受ける。以後、「幻の鉄」の二つ名を持つ中国道の大親分のもとに身柄を預けられ、大親分の一家を守ると共に、大親分の娘と恋仲になった、という。
また、若い時期はブラディー・ナオのリングネームで地下ボクシング活動もしており、海外を転戦していた時期もあった(世界王者・サンディ・サドラーの来日時のスパーリングパートナーもつとめたという)。ハンブルクでは悪役プロレスラーとしてリングに登場し、力道山から「いつでも安藤組に頼みに行くから、ヤクザ辞めてレスリングやれ」と勧められたこともある。
日本航空時代
1959年に22歳で保善高校定時制を卒業。この後、神田のYMCAのホテル学校に入学。1961年1月に23歳で日本航空に入社。客室乗務員として国内線や国際線に乗務する。スチュワードからパーサーまで出世するが、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見し、1965年1月に退社に追い込まれた。
日本航空のパーサー時代は、勤務態度は真面目な反面感情的になる事も多く、同僚の彼女をぶん取って交際したり、横柄な支店長を殴ったり、乗客を投げ飛ばしたこともあったと言われている。またこの頃は、組の代紋を付けていたが、出勤する時は外していたという。
なおこの際に当時日本航空の社員で、その後作家となる深田祐介と知り合っている。なお1966年に三島由紀夫原作、田宮二郎主演で日本航空時代の安部をモデルとした映画『複雑な彼』が大映で制作、封切りされている。
小金井一家時代
1964年に安藤組が解散し、日本航空を退社した後は、新宿の暴力団の小金井一家にヘッドハンティングされる。同時にキックボクシング中継の解説者、ライブハウス経営、プロモーター、レストラン経営、競馬予想屋などの職を転々とした。
特に1960年代後半から1970年代にかけて青山でジャズクラブ「ロブロイ」を経営していた時期は本店を当時の妻の遠藤瓔子に任せ、赤坂と六本木と三田の支店をそれぞれ愛人に任せ、白いキャデラック・フリートウッドを乗り回し、ドーベルマンを飼い、東京都大田区鵜の木の敷地700坪の豪邸に住むほどの勢いがあった。
この当時、「ロブロイ」でピアノを弾いていたのが当時高校生だった矢野顕子で、後に遠藤瓔子が当時を回想して書いた「青山『ロブロイ』物語」はテレビドラマにもなった。
1966年から刑務所で服役。1974年9月から半年間、ボリビア政府軍の砲艇の航海長として革命軍の村を掃射する任務にあたったこともあるという。また、1975年には南ベトナム政府軍御用達のフランス製メタンフェタミン25キログラム缶を安価に入手すべく、陥落直前のサイゴンに潜り込んだものの、一度は1500万円で購入したメタンフェタミンを群集に争奪され、命からがら脱出したこともあるという。
1975年に拳銃不法所持や麻薬法違反で実刑判決を受け、同年秋から府中刑務所で4年間服役。府中刑務所収監中に知り合った囚人の中に赤軍派(後に日本赤軍)活動家・城崎勉がおり、安部の著作によると、ダッカ事件が起きる直前、(既に獄外の日本赤軍と連絡を取り合っていた)城崎にオルグされかけたことがあったという。
作家
1981年にヤクザから足を洗うが、それまでの安部の前科は暴行傷害、賭博、麻薬、青少年保護条例違反など日本国内だけで合計14犯、また海外でも複数回の服役を経験し、海外での前科は3犯、国内と国外での刑務所生活は通算8年間に及んだ。
1983年から小説を書き始めたが、過去の犯罪歴ゆえに著書を出してくれる出版社が見つからず、不遇をかこつ。1984年、山本夏彦に文才を見出され、雑誌『室内』に『府中木工場の面々』と題した文章の連載を開始。
1987年、刑務所服役中の体験を書いた この連載がまとめられ、『塀の中の懲りない面々』として文藝春秋より出版される。『塀の中の懲りない面々』はベストセラーとなり映画化され、以後人気作家としての地位を築く(日本で刑務所のことを「塀の中」と表現するようになったのは、この著作の影響である)。
後に漫画作品の原作にも携わるようになり、2005年には『RAINBOW-二舎六房の七人-』で第51回小学館漫画賞一般部門を受賞した。その他に、エッセイなどの連載や『追跡』(日本テレビ系)のコメンテーター、俳優やタレントとしてなど、マルチな才能を見せている。
交友関係
交際のあった人間を『俺が痺れた男たち―日本快男児列伝』で紹介しているだけでも、安藤昇、石原裕次郎、和泉宗章、江夏豊、大川幸介、大野伴睦、金平正紀、黄金井光良、越田利成、サッド・サム・イチノセ(ダド・マリノのマネージャー)、島田丈、ジョージ川口、高本公夫、畑山隆則、花村元司、ピストン堀口(中村信一、玄海男から間接的に話を聞く)、マック鈴木、宮沢邦明、村田勝志、森田雅、山手勝、由佐嘉邦、渡辺正人とそうそうたる面々が顔を揃えている。
また裏街道の人物・団体としては「海原清平」、「岩田幸雄」、「森脇将光」、「闘鶏協会」といった名前も著書に登場する。
また、前述の深田祐介とも日本航空の社員時代に交流があったが、当時深田は安部が「帰国子女で典型的な山の手のお坊ちゃん風」であり、暴力団員でもあったことを退社に至るまで全く知らなかったという。
同学年の梅宮辰夫とは「辰ちゃん」「譲二」と呼び合う仲である。大の岡田奈々ファンとして知られる。自身原作の映画作品に出演させている。文筆家としての道を歩むきっかけになった山本夏彦との出会いに関しては、著書等で事あるごとに「山本先生は自分の恩師、大恩人である」と触れている。
元総理大臣の橋本龍太郎とは麻布中学校時代の同級生。麻布中学校の入学試験当日、頭のいい受験生の後席に座ればカンニングできると目論んだ安部は、他の受験生を品定めしたところ、橋本が一番頭がよさそうに感じその後席に座ることに成功したという。
後年、橋本と同窓会で会った際、政界に身を置くようになっていた橋本に自身と似た匂いを嗅ぎ取り、互いに都合の悪い事だけは黙して語らないことを約束したといわれる。また、橋本政権下の時代、コメンテーターとしてトーク番組で政治問題のコメントする際はいつも『俺は龍ちゃん(橋本のことを親しみをこめて)と同級生だったから』とのことでいつも自民党擁護の発言が目立った。
しかし、これは安部自身が元ヤクザのベストセラー作家でありながら橋本と同級生だったことを言いたかったちょっとしたネタであり一緒に出演していた他のコメンテーターからは特に問題視されることはなかった。
永田雅一に大変な恩義を感じており、雅一の孫でTBSラジオのディレクター、プロデューサーを歴任した永田守の頼みは断れないらしい。そのため永田守が初代プロデューサー兼ディレクターを担当した『伊集院光 深夜の馬鹿力』の番組内では、他所ではありえない扱いをされることが何度かあった(内田有紀、遠藤久美子、シャロン・ストーンの物真似を延々させ続けられる、出会い系サイトに登録してどれくらいモテるか他の出演者と競う、など。詳しくは該当記事参照)。
三島由紀夫とは親交があり、三島にボクシングジムを紹介するなどした。また当時の安部の半生を三島が小説にしたのが、田宮二郎主演で映画化もされた『複雑な彼』である。この話の主人公の名前「宮城譲二」は、その後安部が作家デビューするにあたりペンネームにもなった。
ヤクザ映画の「仁義なき戦い」の第四部「仁義なき戦い 頂上作戦」の劇中、第二次広島抗争で、全国からケンカの助っ人が広島に集結した件があるが、これに派遣された一人が、現役渡世時代の安部。安部にとってもこれは輝く実績の一つだが、劇中にもあるように実際は全面戦争にはならず、安部は暇で野球に興じていたという。
長嶋茂雄の天覧試合のサヨナラホームランも広島の親分宅で見たという。ある日、商店街の野球大会に参加して、飛ばない軟式ボールを広島市民球場の外野スタンドにたたき込んだら、商店街の会長が「親分にもよく話してやるから、広島カープの入団テストを受けてみなさい」と言われたという。野球については、阪神タイガースのファンで、子供の頃に吉田義男のボールさばきを見て大ファンになった。
子供の頃、疎開していた熱海の町内に松竹ロビンスの監督等を務めた新田恭一が住んでいて野球を教えてもらったという。これが縁で成人した安部が安藤組のアマチュア野球チームにいたおり、安部の母が「プロ野球選手になれたらヤクザをやめてもいい」と言った息子の話を真に受け、足を洗って欲しいと新田から辿って新田の慶応野球部の後輩・別当薫に安部を紹介したことがあるという。
執筆にはパソコンを使用し、ときおり2ちゃんねるやウィキペディアを見ていることを明らかにしている。また、選挙ではいつも日本共産党に投票していたが、2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党に投票し、後悔しているとも述べている。
親族
母方の祖父、梶原仲治は明治の立志伝中の人物で、山形県の福浦村で生まれて苦学して東京帝国大学を卒業し、銀行家になった。母の姉は、法学博士岸清一の長男の妻。次男はゲームソフトの原作・監督などを手がける遠藤正二朗。
<以下略>
参照元 : ウィキペディア
ヤクザ時代の懐かしの街を旅して、記憶を修正する楽しみ – 安部譲二
2012.06.20
49歳でベストセラー作家となった安部譲二さん
そこまでの道のりは数々の著書に書かれているが
はたしてどうやって身や心を休めていたか
激動の人生を語っていただいた
取材・文/高橋 満 撮影/尾形和美
キレイに生まれ変わった街でも
旅すれば当時の記憶が蘇る
「こういう取材を受けるとさ、みんな『私は忙しいから休息の時間が取れなくて……』とか言うんだろ。そんなの、俺に言わせりゃ全部嘘だね。歳とってまで毎日忙しくしていたら、みんなすぐに死んじゃうよ(笑)」
「名前は忘れちゃったけれど、この前こんなことを言っていた年寄りがいたぞ。若い連中が『別に……』といろいろなことに無関心だったり、自動車に興味を持たない、海外旅行は危ないから行かないというのは人間が進歩した証だと言うんだ。危険回避能力がある、人間のあるべき姿だと。そうかもしれないけど、そんな人生何が楽しいんだ!」
本題に入る前からさまざまな話題で笑い、怒り、ときに悲しそうな顔も見せる安部譲二さん。言葉にはしなくても、人が大好きで話すことが楽しいという雰囲気が伝わってくる。
「そうそう、俺の休息だったね。いまは旅をするのが楽しみなんだ。この歳になるとさ、何も大きなスーツケースを転がして空港までヨチヨチと出向くのだけが旅じゃなくなるの。ちょっとした遠出だって十分に楽しめるんだ。俺はよく東京の自宅から横浜まで旅に出るよ。ホテルに何泊かして、酒を飲みながら窓越しに外の景色を眺めるんだ。するとね、いろいろなことを思い出すんだよ……」
安部さんがヤクザの世界に足を踏み入れたのは朝鮮戦争が休戦になった昭和20年代後半。当時の横浜には外国人船乗りがたくさんいて、売春婦やヤクザも町にあふれていた。発砲事件が起こることも珍しくなく(安部さんが初めて撃たれたのも横浜だった)、近くを流れる川に死体が浮くこともあったという。
「でもさ、いまの横浜にそんな怪しげな場所なんてないでしょう。だから俺は現在の横浜を旅することで、懐かしむと同時に記憶を修正しているの。昔は冬になるとあのあたりにあった貯木場で大勢の人がボラを釣っていたな。でもいまは貯木場はなくなり高層マンションが立ち並んでいるのかってね。記憶の修正っていうのは大事だよ。中には自分で勝手に誤解していることもあるからね。若いころの体験や人から聞いた話が原因で、俺はずっと北関東が大嫌いだった。方言はきれいじゃないし飯もうまくない。何が楽しいんだって。でも堅気になって群馬の四万温泉を旅する機会があったのさ。するとお湯がいいだけでなく、景色はいいし飯もうまい。何より人がいい。ここは本当に俺の知っている北関東かってビックリした。記憶の修正作業は新たなことを気づかせてくれるから楽しいものだよ」
侵入者の気配を逃さないために
部屋中に新聞紙を敷いていた
ゴロツキは一瞬でも気を抜いたら負け すぐ命を取られるか逮捕されるのがオチさ
作家に転身して25年あまり。いまは旅を楽しむ時間を大切にする安部さんだが、堅気になる前の休息とはどのようなものだったのか。
「最初に少年院に入ったときのことだけどね。一緒に入ったやつがまだできたばかりの防衛大学校に入学して将校を目指そうって言いだした。俺は『あそこは数学が2種類あるから無理だ』と言ったら、そいつが『解析Ⅱで60点は取れるようにしてやる』と言い、少年院での空いた時間を使って猛勉強したのを覚えているよ。そして『自分たちは少年院に服役中だが受験したい』と防衛庁に手紙を書いたら受験許可が下りてね。手錠をはめたまま横須賀中央駅まで行き、看守が絶対に逃げるなよと念を押しながら手錠を外してくれた。そうしたらなんと一次試験を通ったんだよ。二次試験を受けるためには高校の卒業証書が必要だと言うからすぐ親父に電報を打った。『たぶん卒業しているから卒業証書をもらってきてくれ』ってね。親父が学校まで行くと、なんと俺は卒業式の前日に退学になっていたの。そして献金してくれれば卒業証書を出してやると言われたらしいんだけど、親父は『天皇陛下の海軍将校になるなら家売ってでも出してやるが、吉田茂の自衛隊将校になるなら一円だって出さん』と話を断ってしまったんだ」
あのとき卒業証書をもらって防衛大に入っていれば、いまごろは出世してジープの後ろにふんぞり返り、ピンクのキャデラックを買っていたんだけどなあと安部さんは笑う。その後のゴロツキ時代は休息の時間など一秒もなかったという。油断すればいつ命を狙われたり逮捕されるかわからない。“見覚えのない二人組”に警戒し、寝るときですら部屋中に新聞紙を敷きつめていた(新聞紙を踏むと音がするので寝ていても侵入者に気づく)。
「でもね、俺たちは逮捕されるとほっとするところもあるんだよ。例えるならリハビリセンターのようなものだったのかな。刑務所ではいつも独居房だった。俺は刑務所で寝ると悪夢にうなされてギャッと跳ね起きちゃうからみんなに迷惑なんだ。相手が拳銃で俺を狙っているのに俺のリボルバーは撃鉄が起きない。そのうちに相手の指に力が入って、そこで飛び起きる。ゴロツキの世界っていうのは、それくらい気が休まらないものなんだよ」
地の果てまでも原稿取りに来る
編集者は刑事よりもすごい!
「我が家ではタバコは体にいいものってことになっているから。遠慮なくやってよ」。禁煙したことはあるが体重が8kgも増えてしまったのでまた始めたのだという。銘柄はショートホープ。「当時のヤクザはみんなこれだった。理由は言えないけれどね。あとは手巻きもカッコいいよな。西部劇では左手でくるっと巻くんだ。右手はいつも銃を持っているからね」
「俺は本当に運がいい。いいときにゴロツキを辞めて作家になることができたからね。しかもそれぞれの出版社の有名編集者が担当についてくれたから」と、どこかほっとしたような表情で話す安部さん。同時に編集者の行動力に驚かされることも多々あった。
「作家になった翌年だったと思うけれど、ヤボ用で3週間ほど日本を留守にしたことがある。でも週刊誌の連載を休むわけにはいかない。なんと彼らはバイカル湖にいた俺のところまで原稿を取りに来たんだ。シベリアに行ったときはロシアの地図に×印を何個もつけて渡された。ここに系列新聞社の支局があるのでファクスを使えるってね。ところが原稿を書いてそこに行ってみると、ファクスをロシア政府が押さえていて使えない。いつ使えるようになるかもわからなくて途方に暮れていると、やっぱり彼らは原稿を取りに現れるんだよ。思わず言ったよ。『お前ら、刑事よりすごいぞ』ってね。彼らからは絶対に逃げられないな(笑)」
編集者だけでなく作家の仲間も多い安部さん。しかし彼らとはゴルフや旅行に行ったことはないし、一緒に酒を飲んだこともほとんどないという。同業者とは酒を飲まない。これはヤクザ時代から貫いていることのひとつ。
「ヤクザでも小説家でも、同業と飲むとそれは“付き合い”になってしまうから。酒は仕事の付き合いがない、ヘンなやつと飲むのが一番楽しいね。俺はつい最近まで飲みに行くのは毎月20日過ぎで天気の悪い日って決めていた。こういうときは客足が落ちているからね。25日以降だとモテるのは給料が出た堅気の人になっちゃうんだよな」
いまでは酒の量も回数も減った。そのぶん愛猫と過ごす時間が増えているようだ。
「猫は周りをよく見て、誰が一番偉いかを理解しているんだ。俺のことはぶつかっても絶対に壊れないオモチャだと思っているよ」
参照元 : WORLD JC
49歳でベストセラー作家となった安部譲二さん
そこまでの道のりは数々の著書に書かれているが
はたしてどうやって身や心を休めていたか
激動の人生を語っていただいた
取材・文/高橋 満 撮影/尾形和美
キレイに生まれ変わった街でも
旅すれば当時の記憶が蘇る
「こういう取材を受けるとさ、みんな『私は忙しいから休息の時間が取れなくて……』とか言うんだろ。そんなの、俺に言わせりゃ全部嘘だね。歳とってまで毎日忙しくしていたら、みんなすぐに死んじゃうよ(笑)」
「名前は忘れちゃったけれど、この前こんなことを言っていた年寄りがいたぞ。若い連中が『別に……』といろいろなことに無関心だったり、自動車に興味を持たない、海外旅行は危ないから行かないというのは人間が進歩した証だと言うんだ。危険回避能力がある、人間のあるべき姿だと。そうかもしれないけど、そんな人生何が楽しいんだ!」
本題に入る前からさまざまな話題で笑い、怒り、ときに悲しそうな顔も見せる安部譲二さん。言葉にはしなくても、人が大好きで話すことが楽しいという雰囲気が伝わってくる。
「そうそう、俺の休息だったね。いまは旅をするのが楽しみなんだ。この歳になるとさ、何も大きなスーツケースを転がして空港までヨチヨチと出向くのだけが旅じゃなくなるの。ちょっとした遠出だって十分に楽しめるんだ。俺はよく東京の自宅から横浜まで旅に出るよ。ホテルに何泊かして、酒を飲みながら窓越しに外の景色を眺めるんだ。するとね、いろいろなことを思い出すんだよ……」
安部さんがヤクザの世界に足を踏み入れたのは朝鮮戦争が休戦になった昭和20年代後半。当時の横浜には外国人船乗りがたくさんいて、売春婦やヤクザも町にあふれていた。発砲事件が起こることも珍しくなく(安部さんが初めて撃たれたのも横浜だった)、近くを流れる川に死体が浮くこともあったという。
「でもさ、いまの横浜にそんな怪しげな場所なんてないでしょう。だから俺は現在の横浜を旅することで、懐かしむと同時に記憶を修正しているの。昔は冬になるとあのあたりにあった貯木場で大勢の人がボラを釣っていたな。でもいまは貯木場はなくなり高層マンションが立ち並んでいるのかってね。記憶の修正っていうのは大事だよ。中には自分で勝手に誤解していることもあるからね。若いころの体験や人から聞いた話が原因で、俺はずっと北関東が大嫌いだった。方言はきれいじゃないし飯もうまくない。何が楽しいんだって。でも堅気になって群馬の四万温泉を旅する機会があったのさ。するとお湯がいいだけでなく、景色はいいし飯もうまい。何より人がいい。ここは本当に俺の知っている北関東かってビックリした。記憶の修正作業は新たなことを気づかせてくれるから楽しいものだよ」
侵入者の気配を逃さないために
部屋中に新聞紙を敷いていた
ゴロツキは一瞬でも気を抜いたら負け すぐ命を取られるか逮捕されるのがオチさ
作家に転身して25年あまり。いまは旅を楽しむ時間を大切にする安部さんだが、堅気になる前の休息とはどのようなものだったのか。
「最初に少年院に入ったときのことだけどね。一緒に入ったやつがまだできたばかりの防衛大学校に入学して将校を目指そうって言いだした。俺は『あそこは数学が2種類あるから無理だ』と言ったら、そいつが『解析Ⅱで60点は取れるようにしてやる』と言い、少年院での空いた時間を使って猛勉強したのを覚えているよ。そして『自分たちは少年院に服役中だが受験したい』と防衛庁に手紙を書いたら受験許可が下りてね。手錠をはめたまま横須賀中央駅まで行き、看守が絶対に逃げるなよと念を押しながら手錠を外してくれた。そうしたらなんと一次試験を通ったんだよ。二次試験を受けるためには高校の卒業証書が必要だと言うからすぐ親父に電報を打った。『たぶん卒業しているから卒業証書をもらってきてくれ』ってね。親父が学校まで行くと、なんと俺は卒業式の前日に退学になっていたの。そして献金してくれれば卒業証書を出してやると言われたらしいんだけど、親父は『天皇陛下の海軍将校になるなら家売ってでも出してやるが、吉田茂の自衛隊将校になるなら一円だって出さん』と話を断ってしまったんだ」
あのとき卒業証書をもらって防衛大に入っていれば、いまごろは出世してジープの後ろにふんぞり返り、ピンクのキャデラックを買っていたんだけどなあと安部さんは笑う。その後のゴロツキ時代は休息の時間など一秒もなかったという。油断すればいつ命を狙われたり逮捕されるかわからない。“見覚えのない二人組”に警戒し、寝るときですら部屋中に新聞紙を敷きつめていた(新聞紙を踏むと音がするので寝ていても侵入者に気づく)。
「でもね、俺たちは逮捕されるとほっとするところもあるんだよ。例えるならリハビリセンターのようなものだったのかな。刑務所ではいつも独居房だった。俺は刑務所で寝ると悪夢にうなされてギャッと跳ね起きちゃうからみんなに迷惑なんだ。相手が拳銃で俺を狙っているのに俺のリボルバーは撃鉄が起きない。そのうちに相手の指に力が入って、そこで飛び起きる。ゴロツキの世界っていうのは、それくらい気が休まらないものなんだよ」
地の果てまでも原稿取りに来る
編集者は刑事よりもすごい!
「我が家ではタバコは体にいいものってことになっているから。遠慮なくやってよ」。禁煙したことはあるが体重が8kgも増えてしまったのでまた始めたのだという。銘柄はショートホープ。「当時のヤクザはみんなこれだった。理由は言えないけれどね。あとは手巻きもカッコいいよな。西部劇では左手でくるっと巻くんだ。右手はいつも銃を持っているからね」
「俺は本当に運がいい。いいときにゴロツキを辞めて作家になることができたからね。しかもそれぞれの出版社の有名編集者が担当についてくれたから」と、どこかほっとしたような表情で話す安部さん。同時に編集者の行動力に驚かされることも多々あった。
「作家になった翌年だったと思うけれど、ヤボ用で3週間ほど日本を留守にしたことがある。でも週刊誌の連載を休むわけにはいかない。なんと彼らはバイカル湖にいた俺のところまで原稿を取りに来たんだ。シベリアに行ったときはロシアの地図に×印を何個もつけて渡された。ここに系列新聞社の支局があるのでファクスを使えるってね。ところが原稿を書いてそこに行ってみると、ファクスをロシア政府が押さえていて使えない。いつ使えるようになるかもわからなくて途方に暮れていると、やっぱり彼らは原稿を取りに現れるんだよ。思わず言ったよ。『お前ら、刑事よりすごいぞ』ってね。彼らからは絶対に逃げられないな(笑)」
編集者だけでなく作家の仲間も多い安部さん。しかし彼らとはゴルフや旅行に行ったことはないし、一緒に酒を飲んだこともほとんどないという。同業者とは酒を飲まない。これはヤクザ時代から貫いていることのひとつ。
「ヤクザでも小説家でも、同業と飲むとそれは“付き合い”になってしまうから。酒は仕事の付き合いがない、ヘンなやつと飲むのが一番楽しいね。俺はつい最近まで飲みに行くのは毎月20日過ぎで天気の悪い日って決めていた。こういうときは客足が落ちているからね。25日以降だとモテるのは給料が出た堅気の人になっちゃうんだよな」
いまでは酒の量も回数も減った。そのぶん愛猫と過ごす時間が増えているようだ。
「猫は周りをよく見て、誰が一番偉いかを理解しているんだ。俺のことはぶつかっても絶対に壊れないオモチャだと思っているよ」
前科14犯は凄すぎる(笑)海外でも3犯。壮絶としか言いようがない波乱万丈な人生。中学在学中から安藤組大幹部の阿部錦吾の舎弟となり、安藤組事務所に出入りしていたとか(笑)
不良外人とケンカしてた話は凄すぎる。安部譲二氏は物凄く運の強い人だと思います。普通ならとっくに死んでますよ(笑)