ブラックエンペラーは、東京都国立市の少年を中心として、オートバイ好きの不良少年が集まって結成されたのが始まりとされている。
1970年代末にはメンバー数が2,000人を超える大規模な暴走族。
ブラックエンペラーは、1960年代末頃から1992年にかけて存在した日本の暴走族。本間優二、蛯澤賢治、イカンガー岩崎、金崎浩之、宇梶剛士、松嶋クロスなどが所属していた。
来歴
結成後、暴走族最盛期の1970年代を迎え、『マッドスペシャル』、『上町小次郎』、および『鬼面党』などのグループとともに暴走族の連合体『関東連合』を組成。1970年代末にはメンバー数が2,000人を超える大規模な暴走族になり、総本部を国立市から新宿区へ移行。
1976年、ドキュメンタリー映画『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』が制作され、知名度が上がると、東京都内をはじめとして、千葉県、神奈川県、茨城県などの関東地域や、遠く静岡県、愛知県に勢力を拡大した。中でも千葉県においては茂原市の『赫夜姫』(かぐやひめ)と名乗っていた既存のグループと合併し、千葉県内の勢力を拡大した。
1982年にはドキュメンタリー映画『俺たちの生きた時間』が制作された。当時はツッパリブームもあり、この映画は一般劇場でも上映された。そのころには世田谷区の下北沢が総本部となっていたが、時代の流れとともに衰退、1992年、25代目総長の時期をもって総本部は解散している。
1977年11月にはメンバーのうち約500名が指定団体とされ、取り締まりが強化され[8]、23名が凶器準備集合、暴力行為の容疑で検挙された。1978年8月26日夜から翌朝にかけて世田谷区で58名が道路交通法および道路運送車両法違反の容疑で検挙された。1979年5月27日未明には杉並区で公務執行妨害及び道路交通法に関わる事件を起こし後に43名が摘発されている。
参照元 : wiki/ブラックエンペラー
歴代総長
創始者 谷田部 泉 輝雄総長
参照元 : blackemperor.com
二代目 瓜田 吉寿総長 ← 元アウトローのカリスマ・瓜田純士の父親
三代目 本間 優二総長
四代目 阿部総長(画像無し)
五代目 岩崎 隆史総長
11PMに出演
六代目 蛯澤 賢治総長
七代目 宇梶 剛士総長
見立真一
関東連合総長、永福町卍黒帝会OB。90年代チーマー全盛期に暴走族・永福町ブラックエンペラーを復活させる。昭和52年世代はチーマーがメインだったが、昭和53年の悪の帝王/残虐王子こと見立真一が復活させた『永福町ブラックエンペラー』が関東連合を徹底的に仕切っていた。
従来の暴走族のように集会・集団暴走ではなく、威嚇行為・喧嘩・凌辱・抗争・拉致監禁・脅迫が活動の中心だった。
六本木襲撃事件の主犯格。殺人容疑で国際手配。現在も海外逃亡中。
見立真一の世代は、宇梶氏などのブラックエンペラー(関東連合)とは全く関わりがないらしい。
参照元 : wiki/見立真一
地上波でも、関東連合について取り上げられた。
石元太一
石元 太一(いしもと たいち、1981年12月13日- )は、日本の暴走族の元リーダー。各種メディア報道にあっては「関東連合元リーダー」と説明されることが多いものの、より正確には、「(関東連合の)元リーダーのひとり」、あるいは「(関東連合系の暴走族)“千歳台ブラックエンペラー”の元総長」となる。
2010年暮れ頃に起きた「海老蔵事件」への関与から特に広く知られる存在となった。のち2012年より総合格闘技のジムを開業。その経営に加え、ファッションブランド運営を含む様々な分野で活動を展開していた。「関東連合元リーダー」として各種メディア媒体へ露出、さらには自伝の出版などもあり、関東連合関係者のなかでも際立って高い一般認知を有する存在となっていた。
2015年2月現在、勾留中。
来歴
東京都世田谷区出身(出生は東京・浅草)、世田谷区立烏山中学校卒業、16歳から「関東連合」系の暴走族「千歳台ブラックエンペラー」の総長(第16代目)を担い、10代の時期の大半を少年鑑別所や中等少年院、ならびに特別少年院などで過ごした。
父親は暴力団組員であった。『いびつな絆 関東連合の真実』(2013年)の著者にあたる「関東連合」OBによれば、家庭環境に深刻な問題を抱えるような生い立ちの人間がほとんどいなかった「関東連合」において、このような「父親が暴力団組員」というような例はおそらく唯一であったという。10代で非行の道に走って以降、「関東連合」にあって、「現役」と呼ばれる世代の中心として抗争や「関東連合」絡みのトラブルに関わってゆくこととなった。
トーヨーボール事件
非行に明け暮れた10代の時期に関与した各種事件のなかでも特に重大なものであった(自叙伝『不良録』)のが、都内大田区池上のボウリング場「トーヨーボール」が現場となった暴走族同士の乱闘事件、いわゆる「トーヨーボール事件」(2000年)で、1名の死者を出すに至ったこの事件の首謀者として逮捕されたこと、あわせて、被害者への「懺悔」の意思をのちの自叙伝『不良録』の内に明かしている。
この事件は無関係な少年グループを対立暴走族グループと勘違いして襲撃した末に飲食店勤務の少年(当時18歳)を脳挫傷で死亡させたもので、犯行に用いた車両が女優の三田佳子(次男が関東連合関係者らから小間使いのように扱われていた)の名義であったことなどから、「関東連合」がメディアの注目を惹起するきっかけとなった事件でもあった。自身は傷害致死の判決を受け、特別少年院に送致される結果となった事件であった。
海老蔵事件
2010年11月に発生した歌舞伎俳優・市川海老蔵の暴行被害事件、いわゆる「海老蔵事件」に直に関与。この事件の折、現場となった東京都内の飲食店で市川と酒席をともにしており、その過程で市川によって灰皿での飲酒を強要されるなどし、それが(自身の仲間による)市川への暴行のきっかけになったとされている。この事件が結果的に自身の知名度に飛躍をもたらすものとなった。
海老蔵事件後
海老蔵事件の当事者として注目を集めて以降、マスメディアからの取材に積極的に応答。まず事件の直後にあたる時期、写真週刊誌『フライデー』の取材を受け、「海老蔵が本当は何をしたか、すべて話します」と題した記事で市川海老蔵への批判を展開。これは示談交渉に奔走していた他の関東連合関係者らとの事前相談も行わないまま単独で決定した行動であったと伝えられている。
その後、傷害事件での逮捕(現行犯・起訴猶予で釈放)などもあったものの、雑誌の連載やブログを新たに始動させるなどでタレント活動に着手するようになった。
本業にあたるジム経営の傍ら、2012年からは新たに竹書房の実話雑誌『実話時報』誌上にエッセイの連載を開始(2012年7月号より)。続く8月には海老蔵事件や「関東連合」の実態などについてを記した自叙伝『不良録 関東連合元リーダーの告白』(双葉社)を上梓。
同書では非行少年の更生セミナーなどにも取り組んでゆくつもりであるとの展望を語ってもいた。同時期には映画主演の決定に伴う俳優デビューの発表もあった(藤原健一監督作『アンダー・フェイス』)。
ところがその俳優デビューの直前にあたる2012年9月8日、他人名義でマンションの賃貸借契約を結んだ詐欺容疑の疑いで逮捕されるに至る。
これはそれから5日前に発生していた「六本木クラブ襲撃事件」の別件逮捕と受け止められた。別の振り込め詐欺事件に関わった疑いから余罪の追及を受けることともなった。以後、再逮捕に次ぐ再逮捕で、11月には同容疑による4度目の逮捕を迎えた。
この時期の当人について、『いびつな絆 関東連合の真実』(2013年)の著者にあたる関東連合OBは、「(たび重なる少年院送致や暴走族の抗争などに追われたことで)失った青春時代を取り戻すかのように華やかな街に身を投じていった。
それは受験勉強やアルバイトで青春時代を失った努力家の若者が、社会人になった途端に、失われた青春時代を取り戻そうとするかのように遊びにハマる姿に似ていた。」と記し、さらに、「タレント活動を始めるなどして、自身の青春時代とは真逆の明るい世界に自分の居場所を作ろうとした」とつづっている。
暴走族時代から原則としてメディアへの露出を禁じていた関東連合にありながら、「関東連合への世間の注目を逆手に取るような」形で芸能活動を本格化、そうしたなかで関東連合の先輩にあたる者達から忠告を受けてもいたものの、「現役時代からさんざん下積みさせられてきたんだから、いい加減、好きにやらせてもらいたい」というような反発の言を返していたという。
そうした状況にあって、「関東連合」内でも様々な苦情が飛び交っていたものの、当人に向かい表立って制止を促す関東連合関係者はいなかった。
それはこうした一連の活動に対し、当時の「関東連合」内で強力な派閥を統率していた人物(のちの「六本木クラブ襲撃事件」の主犯格)からの支持と力添えがあったからという。
六本木クラブ襲撃事件
2012年9月に六本木のクラブ「フラワー」で飲食店経営者が複数の男達に撲殺された事件、いわゆる「六本木クラブ襲撃事件」で、2013年1月9日、警視庁麻布署捜査本部が公判中の石元太一に凶器準備集合容疑で逮捕状を取った。事件前後に金属バットを持って現場に集合したとされる関東連合元メンバーらと連絡を取り、合流するなどした疑いが持たれている。
31日にはこの殺害に直に着手した容疑、すなわち殺人容疑で再逮捕。結果、殺意の立証の困難性から殺人罪での起訴は見送りとなり、傷害致死罪による追起訴を受ける運びとなった。区分審理で詐欺罪の有罪判決が認定された後の同年12月に東京地裁で傷害致死罪等の裁判員裁判が開かれ、12月16日、「事件を発生させた張本人」として懲役22年の長期に亘る刑を求刑された。
東京地裁は「事件の直前に現場を離れていたが、対象の男性の来店を仲間に知らせ、凶器を持ってクラブに向かう仲間の様子を目撃していたことから傷害致死罪の共謀が成立する」としたうえで、「先輩が首謀した抗争に連絡役として協力したにすぎず、事件の黒幕と位置付けることはできない」として、懲役11年の実刑判決を言い渡した。
東京地検はこの判決を不服として東京高裁に控訴。2014年(7月14日)にはこの事件についてを記した獄中手記『反証 六本木クラブ襲撃事件「逮捕からの700日」』(双葉社)を上梓している。2014年12月18日、東京高裁は「襲撃は計画的かつ迅速に行われ、被告人も十分予測していた。計画、準備段階で深く関与した責任を、一審判決は過小評価した」として一審判決を破棄し、懲役15年判決を言い渡した。
ジム「SOUL MATE」
経営ジム「SOUL MATE(ソウル・メイト)」こと「EXCITING GYM SOUL MATE ALLIANCE」は東京都渋谷区猿楽町内、代官山駅から程近くの雑居ビル地下に所在。山本“KID”徳郁や佐藤豪則、朴光哲、ヌンポントーン・バンコクストア、渡辺久江などといった著名な格闘家らが指導者として運営に参画。このジムの名称は当時運営していた自身のブログのタイトルと連動させたもので、関東連合の先輩にあたる人物(のちの「六本木クラブ襲撃事件」の主犯格)の支援を裏から受けたうえで開業に至ったものであった(自身はいわゆる「雇われオーナー」で、出資者がその人物であった)
私生活
東京・南麻布に在住(2012年9月時点)。夏原武は、世間に抱かれがちな不良の一般的なイメージとは異なる、いわゆるイケメン系の爽やかな容姿の持ち主である点に着目の旨の評を寄せている。性風俗通いやギャンブルなどの遊興は一切行わないという。
2011年に自殺したタレント・上原美優の交際相手であったとの噂が立ったことがある。これに関して、2012年8月に受けた東京スポーツの取材に対し、上原と親しい間柄であったことは否定しなかった。
のちのインタビューでは、ちょうど上原の死去の直後に別件で逮捕されており、その件で受けた実名報道が「周囲に迷惑を掛けてしまう結果となった」旨を自ら語っている。この時期には別のモデルの女性とも交際関係にあり、2012年9月の賃貸契約詐欺での逮捕の折には家に一緒にいたという。
かねてより東京・六本木や同西麻布界隈の社交の現場に馴染んでいたこともあって、様々な芸能人や実業家、例として、大王製紙の元会長にあたる井川意高や、ABCホームの元会長にあたる塩田大介などとも親交を有していた。
参照元 : wiki/石元太一
石元太一は元暴力団員だった。過去に住吉会を破門されていた。
初代レディース山田加奈総長
ブラックエンペラー出身の有名人
蛯澤賢治
芸能プロデューサー、右翼活動家、極真空手師範。6代目総長を務めた。
参照元 : wiki/蛯澤賢治
中野ジロー
作家、ライター、コメンテーター、ジャーナリスト、覚せい剤違法薬物撲滅運動家。
愛知県名古屋市出身、埼玉県所沢市在住。社会派漫画家・森哲郎の次男。政治団体「愛心会」会長。妻はAV女優の水無潤。
来歴
板橋区立常盤台小学校入学。後に、田無市立田無小学校、大田区立山王小学校と転校し、中野区立仲町小学校を卒業(小学3年生から)。中野区立第九中学校卒業。元創価学会男子部班長(牙城会会員)。
暴走族・関東連合中野ブラックエンペラー創立者初代リーダー。元・住吉会幸平一家系組員(旧池田会出身)に28年間所属し、後に除籍という形で正式に離脱。
2005年から物書きの世界に入り、以後、「実話ドキュメント」「実話劇画マッドマックス」「実話時代」などの雑誌に連載を持ち、取材記事、漫画原作も多く手がける。「実話劇画ナックルズ」では取材記事も手がける。
参照元 : wiki/中野ジロー
ブログ : 中野ジローの暴走日記
金崎浩之
弁護士。称、呼称は「ヤンキー弁護士」暴走族「ブラックエンペラー」の東京都小平地区の幹部だった。京都外国語大学英米語学科卒業、青山学院大学大学院国際経済学専攻修士課程修了(国際経済学修士)。東京弁護士会所属。妻は弁護士の金崎美代子。株式会社NX 所属
参照元 : wiki/金崎浩之
金崎浩之|トップの危機管理
宇梶剛士
宇梶 剛士(うかじ たかし、1962年8月15日 - )は、日本の俳優、タレント。アベベネクスト所属。
経歴
誕生〜少年時代
1962年、東京都新宿区西大久保1丁目( 現・歌舞伎町2丁目)の「東京都立大久保病院」で生まれる[1]。出生時は体重が5,000gもあり、都の健康優良児の表賞を受けている。3歳から5歳までは東京都小平市に、それから小学2年時までは広島県安芸郡府中町で育ち、その後東京都国立市に転居、国立市立国立第七小学校・国立市立国立第一中学校を卒業。拓殖大学第一高等学校では野球部に所属し、大柄だったこともあり「将来の有望選手」としてプロ球団のスカウトが宇梶を見に何回か足を運びに来たほどの実力であった。
暴走族時代〜デビュー前
だが、その高校時代に友人達と暴力事件を起こし逮捕され、少年鑑別所に入所。出所後に高校を中退し、暫く叔父のいる北海道浦河郡浦河町や二海郡八雲町で労働機会を得るも更生できず、東京家庭裁判所からの呼び出しを口実に帰京。
その後は暴走族に加わり、当時日本最大組織とされたブラックエンペラーの三多摩地区のヘッドから後に7代目名誉総長となり、この時代に得た一生の友のことをテレビ番組で度々熱く語っている。同じく元暴走族のヒロミも「僕らがガキだった頃、とんでもなく有名だった人」とコメントしている。そして暴走族同士の抗争で再び逮捕。家庭裁判所へ送致され、少年院へ収容。
少年院での生活において改心。この時に読んだチャップリンの伝記が俳優を志すきっかけとなると同時に高校復学のための勉強に励み、その後明治大学付属中野高等学校定時制を卒業した。同級生にはつちやかおり・パパイヤ鈴木・布川敏和他多数のアイドル芸能人がいた。
デビュー後
錦野旦の付き人を経て、菅原文太に見込まれ電話一本で引き取られ、菅原の付き人となった。今でも菅原をオヤジと呼んでいる。美輪明宏に見い出され、『青森県のせむし男』(寺山修司作)にて初舞台を踏む。その後、美輪から紹介された渡辺えりなどの元で舞台経験を積む。
若い頃はスリムで美男であり、18歳から2年間ほど、同じ事務所だった鶴田浩二から名前をもらって「津村浩」という芸名で活動をしていた。長く無名で下積みの時代が続き、売れない時期は、芸能以外の仕事をして食いつないだり、もっぱら映画を鑑賞して過ごした。当時鑑賞した作品が現在の芸能活動の糧になっていると発言している。
1997年、フジテレビ系ドラマ『ひとつ屋根の下2』の前園俊雄役で知名度が上昇し、以降、多数のテレビドラマや映画で活躍。一方で舞台出身である事から「打打芝居」(1990年結成)、「damim」(1999年10月結成)といった演劇ユニットを主宰し、自らプロデュース公演の形で舞台を制作してきたが、2007年には「劇団」という形でしか表現できない舞台作りを追求したいとの思いから、金井良信・平野貴大らと共に「劇団PATHOS PACK」を結成。
俳優業以外での活動
バラエティー番組でもたびたび暴走族出身という経歴がネタにされている事などから、ひょうきんさにアクの強さとワイルドさを兼ね備えた独特のキャラクターでバラエティー番組にも積極的に出演している。
少年時代から続けてきた野球を生かし、2007年3月に岩手県に本拠地を置く野球クラブチーム「岩手21赤べこ野球軍団」の総監督に就任したが、同年12月に廃部。不良から立ち直ったという体験から、『ジェネジャン』パネリストとしては準レギュラーとも言えるほど頻繁に出演していた。現在も講演活動などを積極的に行っている。
人物・エピソード
母親の宇梶静江はアイヌの詩人・古布絵作家で、民族運動家でもある。この事情から母は家庭不在のことが多く、青年期まで確執があったことや、高校での部活や学校の実態に対する反発が不良になった原因であると著書やメディアで自ら述べている。浦川治造は叔父に当たる。
上記にもあるように生い立ちとアイヌとの関わりが深いことから、北海道白老郡白老町にあるアイヌ民族博物館内でのアイヌ文化の紹介VTRに進行役として出演している。また、叔父である浦川を追ったドキュメンタリー映画「カムイと生きる」のナレーションも務めている。
1日に何か1つは甘い物を食べないと落ち着かないと公言する程の甘党である。特にチョコレートとあんこが好き。宇梶と同じく、三多摩地区を発祥とする「伝説のすた丼屋」を30余年にわたり、こよなく愛している。また、このことが縁で、同チェーン店が2012年から不定期で発行している小冊子「強き男たち」の創刊号のインタビューを受けた。
大の昆虫嫌いであり、特にゴキブリが苦手で大嫌いだという。家中のいたるところにゴキブリ用の殺虫剤を置いていると『メレンゲの気持ち』などのバラエティー番組などで語ったことがある。
参照元 : wiki/宇梶剛士
ukaji profile
松嶋クロス
松嶋 クロス(まつしま クロス、1978年7月19日 - )は、日本の音楽プロデューサー、AV監督、日本映画監督協会会員。東京都杉並区出身。本名は、松嶋重。
来歴
暴走族
杉並区立高南中学校卒業。少年時代から暴走族に加入し、関東連合・永福町ブラックエンペラーのナンバー2となる。当時のエピソードについて雑誌マッドマックスなどでインタビューに応えている。同誌には、当時撮影した、敵対組織の人間にシックスナインや自慰行為を強要した写真を載せるなどもしている。
暴走族時代には、特攻服やバイク、ステッカーなどのデザインや、集合写真の撮影などの広報的な役割をほとんど担っていた。後の海老蔵暴行事件でも、マスコミを使った海老蔵に対するネガティブ・キャンペーンのプロモーションを取り仕切った。
芸能界デビューし同事件や詐欺で逮捕された石元太一は後輩にあたる。また、アウトローのカリスマとして格闘技の試合やテレビにも出演した瓜田純士は中学の一学年下の後輩であり、両者のブログから交流が伺えた。
AV監督
2000年、「援JOY交際撲滅委員会(九鬼)」でAV監督デビュー。 以後、「恋のゲットバトル」「ピリオドの向こうへ」などの異色作を「レンタルビデオ」界に送り出した。2002年には「若者の性」をテーマにしたレーベル「BLACK JACK」(トライハートコーポレーション)を一任される。
2003年、当時としては珍しいDVDのみをリリースするAVメーカー「クロスワールド」をAV史上最年少の24歳で設立。2005年、新たにインジャン古河とAVメーカー『古松映像』(こまつえいぞう)を設立し、ジャパンホームビデオ、ビジュアルインフォメーションプロダクツ(VIP)、ビッグモーカルから作品をリリース、『君とイク!合宿免許9日間/辻本りょう』で「オレンジ通信最優秀監督賞」「ビデオ・ザ・ワールド準優勝」を受賞。
2005年、2006年のMOODYZ感謝祭では、インジャン古河とともにCAMPAKEXというバンドで参加した。
『CRØSS』からは、大作『MEWになったおっさん』で「2006年度オレンジ通信編集部が選ぶアダルトビデオ第1位」に選ばれるなど、その他数々の賞を獲得した他、「美少女死姦」「全裸SEX教団」「エロ100人隊」など数々の問題作を立て続けに発表。
そして2007年6月9日、新宿LOFT/PLUS ONEで行われたインジャン古河とのトークショー『すべてはけじめをつけてから』においてCAMPAKEX解散と監督引退を突如発表。あまりにも突然すぎる解散・引退に一部熱狂的なファンが彼の功績を称え、松嶋クロス本人監修の下、7月に『松嶋クロスを後世に伝える会』が発足。
AV監督引退作品『さっちゃん』は、AV監督日本一を競い合う「D-1 CLIMAX」に出品され、2007年9月にドグマよりリリースし完全引退した。
音楽プロデューサーという立場で、鼠先輩の芸能界での活躍をサポートした。
2011年2月、小向美奈子に対し、覚せい剤を譲り受けたとして警視庁が逮捕状をとった。その後フィリピンに出国した小向に会うため、松嶋も数回に渡って現地に渡航し、逮捕された際には優秀な弁護士をつけて不起訴まで持っていくといった条件を提示しAV出演の交渉を行った。
当初、小向は頑なに拒んでいたというが、辛抱強く交渉を続け出演の了承を得ることに成功。すぐさまフィリピンに撮影クルーを呼び寄せ現地で撮影を行った。
参照元 : wiki/松嶋クロス
1970年代末にはメンバー数が2,000人を超える大規模な暴走族。
ブラックエンペラーは、1960年代末頃から1992年にかけて存在した日本の暴走族。本間優二、蛯澤賢治、イカンガー岩崎、金崎浩之、宇梶剛士、松嶋クロスなどが所属していた。
来歴
結成後、暴走族最盛期の1970年代を迎え、『マッドスペシャル』、『上町小次郎』、および『鬼面党』などのグループとともに暴走族の連合体『関東連合』を組成。1970年代末にはメンバー数が2,000人を超える大規模な暴走族になり、総本部を国立市から新宿区へ移行。
1976年、ドキュメンタリー映画『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』が制作され、知名度が上がると、東京都内をはじめとして、千葉県、神奈川県、茨城県などの関東地域や、遠く静岡県、愛知県に勢力を拡大した。中でも千葉県においては茂原市の『赫夜姫』(かぐやひめ)と名乗っていた既存のグループと合併し、千葉県内の勢力を拡大した。
1982年にはドキュメンタリー映画『俺たちの生きた時間』が制作された。当時はツッパリブームもあり、この映画は一般劇場でも上映された。そのころには世田谷区の下北沢が総本部となっていたが、時代の流れとともに衰退、1992年、25代目総長の時期をもって総本部は解散している。
1977年11月にはメンバーのうち約500名が指定団体とされ、取り締まりが強化され[8]、23名が凶器準備集合、暴力行為の容疑で検挙された。1978年8月26日夜から翌朝にかけて世田谷区で58名が道路交通法および道路運送車両法違反の容疑で検挙された。1979年5月27日未明には杉並区で公務執行妨害及び道路交通法に関わる事件を起こし後に43名が摘発されている。
参照元 : wiki/ブラックエンペラー
歴代総長
創始者 谷田部 泉 輝雄総長
参照元 : blackemperor.com
二代目 瓜田 吉寿総長 ← 元アウトローのカリスマ・瓜田純士の父親
三代目 本間 優二総長
四代目 阿部総長(画像無し)
五代目 岩崎 隆史総長
11PMに出演
六代目 蛯澤 賢治総長
七代目 宇梶 剛士総長
見立真一
関東連合総長、永福町卍黒帝会OB。90年代チーマー全盛期に暴走族・永福町ブラックエンペラーを復活させる。昭和52年世代はチーマーがメインだったが、昭和53年の悪の帝王/残虐王子こと見立真一が復活させた『永福町ブラックエンペラー』が関東連合を徹底的に仕切っていた。
従来の暴走族のように集会・集団暴走ではなく、威嚇行為・喧嘩・凌辱・抗争・拉致監禁・脅迫が活動の中心だった。
六本木襲撃事件の主犯格。殺人容疑で国際手配。現在も海外逃亡中。
見立真一の世代は、宇梶氏などのブラックエンペラー(関東連合)とは全く関わりがないらしい。
参照元 : wiki/見立真一
地上波でも、関東連合について取り上げられた。
石元太一
石元 太一(いしもと たいち、1981年12月13日- )は、日本の暴走族の元リーダー。各種メディア報道にあっては「関東連合元リーダー」と説明されることが多いものの、より正確には、「(関東連合の)元リーダーのひとり」、あるいは「(関東連合系の暴走族)“千歳台ブラックエンペラー”の元総長」となる。
2010年暮れ頃に起きた「海老蔵事件」への関与から特に広く知られる存在となった。のち2012年より総合格闘技のジムを開業。その経営に加え、ファッションブランド運営を含む様々な分野で活動を展開していた。「関東連合元リーダー」として各種メディア媒体へ露出、さらには自伝の出版などもあり、関東連合関係者のなかでも際立って高い一般認知を有する存在となっていた。
2015年2月現在、勾留中。
来歴
東京都世田谷区出身(出生は東京・浅草)、世田谷区立烏山中学校卒業、16歳から「関東連合」系の暴走族「千歳台ブラックエンペラー」の総長(第16代目)を担い、10代の時期の大半を少年鑑別所や中等少年院、ならびに特別少年院などで過ごした。
父親は暴力団組員であった。『いびつな絆 関東連合の真実』(2013年)の著者にあたる「関東連合」OBによれば、家庭環境に深刻な問題を抱えるような生い立ちの人間がほとんどいなかった「関東連合」において、このような「父親が暴力団組員」というような例はおそらく唯一であったという。10代で非行の道に走って以降、「関東連合」にあって、「現役」と呼ばれる世代の中心として抗争や「関東連合」絡みのトラブルに関わってゆくこととなった。
トーヨーボール事件
非行に明け暮れた10代の時期に関与した各種事件のなかでも特に重大なものであった(自叙伝『不良録』)のが、都内大田区池上のボウリング場「トーヨーボール」が現場となった暴走族同士の乱闘事件、いわゆる「トーヨーボール事件」(2000年)で、1名の死者を出すに至ったこの事件の首謀者として逮捕されたこと、あわせて、被害者への「懺悔」の意思をのちの自叙伝『不良録』の内に明かしている。
この事件は無関係な少年グループを対立暴走族グループと勘違いして襲撃した末に飲食店勤務の少年(当時18歳)を脳挫傷で死亡させたもので、犯行に用いた車両が女優の三田佳子(次男が関東連合関係者らから小間使いのように扱われていた)の名義であったことなどから、「関東連合」がメディアの注目を惹起するきっかけとなった事件でもあった。自身は傷害致死の判決を受け、特別少年院に送致される結果となった事件であった。
海老蔵事件
2010年11月に発生した歌舞伎俳優・市川海老蔵の暴行被害事件、いわゆる「海老蔵事件」に直に関与。この事件の折、現場となった東京都内の飲食店で市川と酒席をともにしており、その過程で市川によって灰皿での飲酒を強要されるなどし、それが(自身の仲間による)市川への暴行のきっかけになったとされている。この事件が結果的に自身の知名度に飛躍をもたらすものとなった。
海老蔵事件後
海老蔵事件の当事者として注目を集めて以降、マスメディアからの取材に積極的に応答。まず事件の直後にあたる時期、写真週刊誌『フライデー』の取材を受け、「海老蔵が本当は何をしたか、すべて話します」と題した記事で市川海老蔵への批判を展開。これは示談交渉に奔走していた他の関東連合関係者らとの事前相談も行わないまま単独で決定した行動であったと伝えられている。
その後、傷害事件での逮捕(現行犯・起訴猶予で釈放)などもあったものの、雑誌の連載やブログを新たに始動させるなどでタレント活動に着手するようになった。
本業にあたるジム経営の傍ら、2012年からは新たに竹書房の実話雑誌『実話時報』誌上にエッセイの連載を開始(2012年7月号より)。続く8月には海老蔵事件や「関東連合」の実態などについてを記した自叙伝『不良録 関東連合元リーダーの告白』(双葉社)を上梓。
同書では非行少年の更生セミナーなどにも取り組んでゆくつもりであるとの展望を語ってもいた。同時期には映画主演の決定に伴う俳優デビューの発表もあった(藤原健一監督作『アンダー・フェイス』)。
ところがその俳優デビューの直前にあたる2012年9月8日、他人名義でマンションの賃貸借契約を結んだ詐欺容疑の疑いで逮捕されるに至る。
これはそれから5日前に発生していた「六本木クラブ襲撃事件」の別件逮捕と受け止められた。別の振り込め詐欺事件に関わった疑いから余罪の追及を受けることともなった。以後、再逮捕に次ぐ再逮捕で、11月には同容疑による4度目の逮捕を迎えた。
この時期の当人について、『いびつな絆 関東連合の真実』(2013年)の著者にあたる関東連合OBは、「(たび重なる少年院送致や暴走族の抗争などに追われたことで)失った青春時代を取り戻すかのように華やかな街に身を投じていった。
それは受験勉強やアルバイトで青春時代を失った努力家の若者が、社会人になった途端に、失われた青春時代を取り戻そうとするかのように遊びにハマる姿に似ていた。」と記し、さらに、「タレント活動を始めるなどして、自身の青春時代とは真逆の明るい世界に自分の居場所を作ろうとした」とつづっている。
暴走族時代から原則としてメディアへの露出を禁じていた関東連合にありながら、「関東連合への世間の注目を逆手に取るような」形で芸能活動を本格化、そうしたなかで関東連合の先輩にあたる者達から忠告を受けてもいたものの、「現役時代からさんざん下積みさせられてきたんだから、いい加減、好きにやらせてもらいたい」というような反発の言を返していたという。
そうした状況にあって、「関東連合」内でも様々な苦情が飛び交っていたものの、当人に向かい表立って制止を促す関東連合関係者はいなかった。
それはこうした一連の活動に対し、当時の「関東連合」内で強力な派閥を統率していた人物(のちの「六本木クラブ襲撃事件」の主犯格)からの支持と力添えがあったからという。
六本木クラブ襲撃事件
2012年9月に六本木のクラブ「フラワー」で飲食店経営者が複数の男達に撲殺された事件、いわゆる「六本木クラブ襲撃事件」で、2013年1月9日、警視庁麻布署捜査本部が公判中の石元太一に凶器準備集合容疑で逮捕状を取った。事件前後に金属バットを持って現場に集合したとされる関東連合元メンバーらと連絡を取り、合流するなどした疑いが持たれている。
31日にはこの殺害に直に着手した容疑、すなわち殺人容疑で再逮捕。結果、殺意の立証の困難性から殺人罪での起訴は見送りとなり、傷害致死罪による追起訴を受ける運びとなった。区分審理で詐欺罪の有罪判決が認定された後の同年12月に東京地裁で傷害致死罪等の裁判員裁判が開かれ、12月16日、「事件を発生させた張本人」として懲役22年の長期に亘る刑を求刑された。
東京地裁は「事件の直前に現場を離れていたが、対象の男性の来店を仲間に知らせ、凶器を持ってクラブに向かう仲間の様子を目撃していたことから傷害致死罪の共謀が成立する」としたうえで、「先輩が首謀した抗争に連絡役として協力したにすぎず、事件の黒幕と位置付けることはできない」として、懲役11年の実刑判決を言い渡した。
東京地検はこの判決を不服として東京高裁に控訴。2014年(7月14日)にはこの事件についてを記した獄中手記『反証 六本木クラブ襲撃事件「逮捕からの700日」』(双葉社)を上梓している。2014年12月18日、東京高裁は「襲撃は計画的かつ迅速に行われ、被告人も十分予測していた。計画、準備段階で深く関与した責任を、一審判決は過小評価した」として一審判決を破棄し、懲役15年判決を言い渡した。
ジム「SOUL MATE」
経営ジム「SOUL MATE(ソウル・メイト)」こと「EXCITING GYM SOUL MATE ALLIANCE」は東京都渋谷区猿楽町内、代官山駅から程近くの雑居ビル地下に所在。山本“KID”徳郁や佐藤豪則、朴光哲、ヌンポントーン・バンコクストア、渡辺久江などといった著名な格闘家らが指導者として運営に参画。このジムの名称は当時運営していた自身のブログのタイトルと連動させたもので、関東連合の先輩にあたる人物(のちの「六本木クラブ襲撃事件」の主犯格)の支援を裏から受けたうえで開業に至ったものであった(自身はいわゆる「雇われオーナー」で、出資者がその人物であった)
私生活
東京・南麻布に在住(2012年9月時点)。夏原武は、世間に抱かれがちな不良の一般的なイメージとは異なる、いわゆるイケメン系の爽やかな容姿の持ち主である点に着目の旨の評を寄せている。性風俗通いやギャンブルなどの遊興は一切行わないという。
2011年に自殺したタレント・上原美優の交際相手であったとの噂が立ったことがある。これに関して、2012年8月に受けた東京スポーツの取材に対し、上原と親しい間柄であったことは否定しなかった。
のちのインタビューでは、ちょうど上原の死去の直後に別件で逮捕されており、その件で受けた実名報道が「周囲に迷惑を掛けてしまう結果となった」旨を自ら語っている。この時期には別のモデルの女性とも交際関係にあり、2012年9月の賃貸契約詐欺での逮捕の折には家に一緒にいたという。
かねてより東京・六本木や同西麻布界隈の社交の現場に馴染んでいたこともあって、様々な芸能人や実業家、例として、大王製紙の元会長にあたる井川意高や、ABCホームの元会長にあたる塩田大介などとも親交を有していた。
参照元 : wiki/石元太一
石元太一は元暴力団員だった。過去に住吉会を破門されていた。
初代レディース山田加奈総長
ブラックエンペラー出身の有名人
蛯澤賢治
芸能プロデューサー、右翼活動家、極真空手師範。6代目総長を務めた。
参照元 : wiki/蛯澤賢治
中野ジロー
作家、ライター、コメンテーター、ジャーナリスト、覚せい剤違法薬物撲滅運動家。
愛知県名古屋市出身、埼玉県所沢市在住。社会派漫画家・森哲郎の次男。政治団体「愛心会」会長。妻はAV女優の水無潤。
来歴
板橋区立常盤台小学校入学。後に、田無市立田無小学校、大田区立山王小学校と転校し、中野区立仲町小学校を卒業(小学3年生から)。中野区立第九中学校卒業。元創価学会男子部班長(牙城会会員)。
暴走族・関東連合中野ブラックエンペラー創立者初代リーダー。元・住吉会幸平一家系組員(旧池田会出身)に28年間所属し、後に除籍という形で正式に離脱。
2005年から物書きの世界に入り、以後、「実話ドキュメント」「実話劇画マッドマックス」「実話時代」などの雑誌に連載を持ち、取材記事、漫画原作も多く手がける。「実話劇画ナックルズ」では取材記事も手がける。
参照元 : wiki/中野ジロー
ブログ : 中野ジローの暴走日記
金崎浩之
弁護士。称、呼称は「ヤンキー弁護士」暴走族「ブラックエンペラー」の東京都小平地区の幹部だった。京都外国語大学英米語学科卒業、青山学院大学大学院国際経済学専攻修士課程修了(国際経済学修士)。東京弁護士会所属。妻は弁護士の金崎美代子。株式会社NX 所属
参照元 : wiki/金崎浩之
金崎浩之|トップの危機管理
宇梶剛士
宇梶 剛士(うかじ たかし、1962年8月15日 - )は、日本の俳優、タレント。アベベネクスト所属。
経歴
誕生〜少年時代
1962年、東京都新宿区西大久保1丁目( 現・歌舞伎町2丁目)の「東京都立大久保病院」で生まれる[1]。出生時は体重が5,000gもあり、都の健康優良児の表賞を受けている。3歳から5歳までは東京都小平市に、それから小学2年時までは広島県安芸郡府中町で育ち、その後東京都国立市に転居、国立市立国立第七小学校・国立市立国立第一中学校を卒業。拓殖大学第一高等学校では野球部に所属し、大柄だったこともあり「将来の有望選手」としてプロ球団のスカウトが宇梶を見に何回か足を運びに来たほどの実力であった。
暴走族時代〜デビュー前
だが、その高校時代に友人達と暴力事件を起こし逮捕され、少年鑑別所に入所。出所後に高校を中退し、暫く叔父のいる北海道浦河郡浦河町や二海郡八雲町で労働機会を得るも更生できず、東京家庭裁判所からの呼び出しを口実に帰京。
その後は暴走族に加わり、当時日本最大組織とされたブラックエンペラーの三多摩地区のヘッドから後に7代目名誉総長となり、この時代に得た一生の友のことをテレビ番組で度々熱く語っている。同じく元暴走族のヒロミも「僕らがガキだった頃、とんでもなく有名だった人」とコメントしている。そして暴走族同士の抗争で再び逮捕。家庭裁判所へ送致され、少年院へ収容。
少年院での生活において改心。この時に読んだチャップリンの伝記が俳優を志すきっかけとなると同時に高校復学のための勉強に励み、その後明治大学付属中野高等学校定時制を卒業した。同級生にはつちやかおり・パパイヤ鈴木・布川敏和他多数のアイドル芸能人がいた。
デビュー後
錦野旦の付き人を経て、菅原文太に見込まれ電話一本で引き取られ、菅原の付き人となった。今でも菅原をオヤジと呼んでいる。美輪明宏に見い出され、『青森県のせむし男』(寺山修司作)にて初舞台を踏む。その後、美輪から紹介された渡辺えりなどの元で舞台経験を積む。
若い頃はスリムで美男であり、18歳から2年間ほど、同じ事務所だった鶴田浩二から名前をもらって「津村浩」という芸名で活動をしていた。長く無名で下積みの時代が続き、売れない時期は、芸能以外の仕事をして食いつないだり、もっぱら映画を鑑賞して過ごした。当時鑑賞した作品が現在の芸能活動の糧になっていると発言している。
1997年、フジテレビ系ドラマ『ひとつ屋根の下2』の前園俊雄役で知名度が上昇し、以降、多数のテレビドラマや映画で活躍。一方で舞台出身である事から「打打芝居」(1990年結成)、「damim」(1999年10月結成)といった演劇ユニットを主宰し、自らプロデュース公演の形で舞台を制作してきたが、2007年には「劇団」という形でしか表現できない舞台作りを追求したいとの思いから、金井良信・平野貴大らと共に「劇団PATHOS PACK」を結成。
俳優業以外での活動
バラエティー番組でもたびたび暴走族出身という経歴がネタにされている事などから、ひょうきんさにアクの強さとワイルドさを兼ね備えた独特のキャラクターでバラエティー番組にも積極的に出演している。
少年時代から続けてきた野球を生かし、2007年3月に岩手県に本拠地を置く野球クラブチーム「岩手21赤べこ野球軍団」の総監督に就任したが、同年12月に廃部。不良から立ち直ったという体験から、『ジェネジャン』パネリストとしては準レギュラーとも言えるほど頻繁に出演していた。現在も講演活動などを積極的に行っている。
人物・エピソード
母親の宇梶静江はアイヌの詩人・古布絵作家で、民族運動家でもある。この事情から母は家庭不在のことが多く、青年期まで確執があったことや、高校での部活や学校の実態に対する反発が不良になった原因であると著書やメディアで自ら述べている。浦川治造は叔父に当たる。
上記にもあるように生い立ちとアイヌとの関わりが深いことから、北海道白老郡白老町にあるアイヌ民族博物館内でのアイヌ文化の紹介VTRに進行役として出演している。また、叔父である浦川を追ったドキュメンタリー映画「カムイと生きる」のナレーションも務めている。
1日に何か1つは甘い物を食べないと落ち着かないと公言する程の甘党である。特にチョコレートとあんこが好き。宇梶と同じく、三多摩地区を発祥とする「伝説のすた丼屋」を30余年にわたり、こよなく愛している。また、このことが縁で、同チェーン店が2012年から不定期で発行している小冊子「強き男たち」の創刊号のインタビューを受けた。
大の昆虫嫌いであり、特にゴキブリが苦手で大嫌いだという。家中のいたるところにゴキブリ用の殺虫剤を置いていると『メレンゲの気持ち』などのバラエティー番組などで語ったことがある。
参照元 : wiki/宇梶剛士
ukaji profile
松嶋クロス
松嶋 クロス(まつしま クロス、1978年7月19日 - )は、日本の音楽プロデューサー、AV監督、日本映画監督協会会員。東京都杉並区出身。本名は、松嶋重。
来歴
暴走族
杉並区立高南中学校卒業。少年時代から暴走族に加入し、関東連合・永福町ブラックエンペラーのナンバー2となる。当時のエピソードについて雑誌マッドマックスなどでインタビューに応えている。同誌には、当時撮影した、敵対組織の人間にシックスナインや自慰行為を強要した写真を載せるなどもしている。
暴走族時代には、特攻服やバイク、ステッカーなどのデザインや、集合写真の撮影などの広報的な役割をほとんど担っていた。後の海老蔵暴行事件でも、マスコミを使った海老蔵に対するネガティブ・キャンペーンのプロモーションを取り仕切った。
芸能界デビューし同事件や詐欺で逮捕された石元太一は後輩にあたる。また、アウトローのカリスマとして格闘技の試合やテレビにも出演した瓜田純士は中学の一学年下の後輩であり、両者のブログから交流が伺えた。
AV監督
2000年、「援JOY交際撲滅委員会(九鬼)」でAV監督デビュー。 以後、「恋のゲットバトル」「ピリオドの向こうへ」などの異色作を「レンタルビデオ」界に送り出した。2002年には「若者の性」をテーマにしたレーベル「BLACK JACK」(トライハートコーポレーション)を一任される。
2003年、当時としては珍しいDVDのみをリリースするAVメーカー「クロスワールド」をAV史上最年少の24歳で設立。2005年、新たにインジャン古河とAVメーカー『古松映像』(こまつえいぞう)を設立し、ジャパンホームビデオ、ビジュアルインフォメーションプロダクツ(VIP)、ビッグモーカルから作品をリリース、『君とイク!合宿免許9日間/辻本りょう』で「オレンジ通信最優秀監督賞」「ビデオ・ザ・ワールド準優勝」を受賞。
2005年、2006年のMOODYZ感謝祭では、インジャン古河とともにCAMPAKEXというバンドで参加した。
『CRØSS』からは、大作『MEWになったおっさん』で「2006年度オレンジ通信編集部が選ぶアダルトビデオ第1位」に選ばれるなど、その他数々の賞を獲得した他、「美少女死姦」「全裸SEX教団」「エロ100人隊」など数々の問題作を立て続けに発表。
そして2007年6月9日、新宿LOFT/PLUS ONEで行われたインジャン古河とのトークショー『すべてはけじめをつけてから』においてCAMPAKEX解散と監督引退を突如発表。あまりにも突然すぎる解散・引退に一部熱狂的なファンが彼の功績を称え、松嶋クロス本人監修の下、7月に『松嶋クロスを後世に伝える会』が発足。
AV監督引退作品『さっちゃん』は、AV監督日本一を競い合う「D-1 CLIMAX」に出品され、2007年9月にドグマよりリリースし完全引退した。
音楽プロデューサーという立場で、鼠先輩の芸能界での活躍をサポートした。
2011年2月、小向美奈子に対し、覚せい剤を譲り受けたとして警視庁が逮捕状をとった。その後フィリピンに出国した小向に会うため、松嶋も数回に渡って現地に渡航し、逮捕された際には優秀な弁護士をつけて不起訴まで持っていくといった条件を提示しAV出演の交渉を行った。
当初、小向は頑なに拒んでいたというが、辛抱強く交渉を続け出演の了承を得ることに成功。すぐさまフィリピンに撮影クルーを呼び寄せ現地で撮影を行った。
参照元 : wiki/松嶋クロス
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