2017年11月8日水曜日

指定暴力団「神戸山口組」が直系組長らの「定例会」について開催を見送る可能性?生き残りをかけた三つの山口組

神戸山口組が定例会を中止か 本拠地使えず?

2017/11/8(水) 13:34配信



指定暴力団神戸山口組が直系組長らの「定例会」について開催を見送る可能性のあることが8日、捜査関係者らへの取材で分かった。

10月末に神戸地裁が本拠地事務所(兵庫県淡路市)の使用禁止の仮処分を決定。定例会はこのところ毎月8日に同事務所で開かれており、地裁決定が影響したとみられる。

捜査関係者らによると、同組が7日に幹部による会合で定例会の中止を決めたとの情報があるといい、兵庫県警が同組の動きを確認している。

同組は、2015年8月に指定暴力団山口組(総本部・神戸市灘区)から分裂後、最初の定例会を現在の本拠地事務所で開催。その後は神戸山口組系の山健組本部(同市中央区花隈町)▽西脇組本部(同市西区玉津町上池)▽池田組系雄真会(同市長田区五番町2)-の3事務所でも開いた。

今春には神戸市中央区二宮町にも新たに拠点施設を設けた。 兵庫県警によると8日午前11時現在、いずれの施設でも組員が集まる姿は確認できないという。

本拠地を巡っては、10月2日に、近隣住民の委託を受けた暴力団追放兵庫県民センターが事務所使用禁止の仮処分を申請。神戸地裁は31日、請求を認める決定を出した。

参照元 : 神戸新聞NEXT


山口組「三国志」生き残りをかけた闘いの行方

2017/11/17(金) 13:00配信

日本最大の暴力団がいま、最大の危機を迎えている。暴排条例による外圧、先細るシノギ、半グレら新勢力の台頭――。

なぜ山口組は内部で争うのか、生き残るのはどこか。ヤクザ取材半世紀の著者・溝口敦氏の集大成『山口組三国志 織田絆誠という男』より、山口組三派分裂の流れをたどる解説をお届けします。

■三つの「山口組」

2017年4月30日、それまでの「神戸山口組」を割って出て、「任俠団体山口組」

(その後同年8月「任侠山口組」と改称)が尼崎で結成された。

代表に就いたのは神戸山口組で若頭代行(懲罰委員を兼任)で、またその傘下の四代目山健組でも副組長だった織田絆誠(よしのり)(50歳・当時)である。

山健組には90人前後の直参(山健組本部に名を連ねる直系の若衆や舎弟)がいた(正規登録者数は1200人。うち服役者は200人)が、織田はその3分の1、30団体(正規登録者数では2分の1にあたる600人。服役者100人を含む)を引き連れ、任侠山口組を結成した。

同組は他の神戸山口組の直系組織(四代目真鍋組、三代目古川組など)と、六代目山口組系の組織(京滋連合)をも加え、おおよそ52団体で発足している。広域団体として、勢力は北海道・札幌から九州・鹿児島にまで及ぶ。

警察は任侠山口組の分裂を神戸山口組、もしくは四代目山健組の内輪揉め、内紛と見たがったが、実質は第三の山口組への分裂であり、新団体の誕生だった。

まとめていえば、六代目山口組(司忍組長、髙山清司若頭)は2015年8月に神戸山口組(井上邦雄組長、寺岡修若頭)を分裂させ、その神戸山口組が2017年4月に任侠山口組(織田絆誠代表、池田幸治本部長)を分裂させたわけだ。

ここに山口組を名乗る団体が三つ存在し、三派鼎立(ていりつ)の状態が生まれた。今後、三派のうちどこが勝ち残り、どこが生き残るか、「山口組三国志」という物語が始まっていく。

ご承知の通り、山口組は日本最大の暴力団である。三つに分裂した今なお六代目山口組のメンバー数は日本最大であり、神戸山口組も、任侠山口組も、ともに全国で五本の指に入ろうかという大勢力である。

山口組三国志の帰趨が、これから日本暴力団全体の動向を左右していくことは間違いない。

山口組三国志は組織と個人の物語になるはずである。そうでなくても、これまで二度発生した分裂劇自体が個人と組織との相剋の結果だった。

■分裂にいたる因縁

分裂劇を理解するためには、ある程度周辺情報を知っておかなければならない。その意味で過去の経緯と因縁を箇条書き風に踏まえておこう。

①五代目山口組組長だった渡辺芳則は山健組(本拠地は神戸)の出身であり、彼が五代目組長だった時代(1989~2005年)に山健組を優遇した。当時は「山健組に非ざれば山口組に非ず」とさえ言われた。若頭補佐の一人だった司忍が率いる弘道会(名古屋)に対しては、敵視しないまでも冷遇した。当時、「司忍だけは組内ナンバーツーの若頭には就けない」が渡辺五代目のホンネと伝えられていた。

②司忍は2005年、クーデター同様にして渡辺芳則を引退に追い込み、次の六代目である山口組の組長に就いた。この司忍による山口組運営は今なお「六代目山口組」として続いているわけだが、「神戸山口組」が分裂・結成されるまでの間、井上邦雄と彼が率いる山健組は冷遇され続けた。つまり五代目から六代目への移行で山口組の主流派が山健組から弘道会に移り、山健組は非主流派に転落して冷や飯を食わされた。

③井上邦雄はついに2015年、司に叛旗を翻し、井上に同調する山口組の直参(直系組長)たちを引き連れて山口組を脱退、別に神戸山口組を立てた。

④その幹部の一人だった織田絆誠は神戸山口組の結成から約一年半後、井上が神戸山口組でやっていることは司―髙山(山口組若頭。現在は府中刑務所で服役中)ラインが六代目山口組でやってきたこととなんら変わらないと公然たる批判に踏み切り、17年4月、任侠山口組を分派・結成した――という流れになる。

近年の山口組に一貫して流れているのは過去の組長や若頭に対する恨みつらみといえる。

司は山健組による優遇支配として、五代目・渡辺芳則と山健組を憎悪し、井上は弘道会による専制支配として、司―髙山ラインを嫌い抜いた。

つまり政権への批判は、どこの誰が山口組組長の座を取るか、という戦いだった。棒倒しゲームのように勝ち負けは単純であり、施策の善し悪しを問うものではなかった。

山口組の組長は原則として終身制である。命ある限り、組長の座に留まり続ける。この原則が崩れたのは五代目組長・渡辺芳則が在任途中で引退を強いられたのが最初であり、今のところ唯一の例である。

執行部に強制された五代目・渡辺芳則の引退が例外となるのか、それとも組員に人気がなく、支持されない組長は中途退任するというルールが山口組の新ルールになるのか、今のところ不明である。

六代目・司忍の代になってからは、幹部の離反や、それに伴う絶縁、除籍などの大量処分、最終的には分裂、別派の誕生など不祥事が続発している。もはや組長の座は「批判無用」の絶対ではないと見られる。すでに執行部(幹部)の同意や理解、協力なしに組長であり続けることは難しくなっている。

しかし、六代目山口組の司忍、神戸山口組の井上邦雄は、ともに組長の座に就くことを最終目的としていたとはいえそうである。

二人とも、まずトップになって山口組をどうしたいか、どちらの方向に進ませたいか、施政方針や抱負の類を持たなかった。彼らは組長に就任後はトップの座がもたらす権勢と経済的利益を貪ることに熱心で、自分の施政に疑問を持つことさえなかった。

二人は揃って組の運営に明確な理念や目標を持たず、組長の座をいわば「ヤクザ双六」の上がりと考えたから、容易に拝金主義や色ボケなど「暗愚の帝王」に成り下がった。

彼ら二人に比べ、織田絆誠は任侠山口組で組員の生活をどう変えたいか、ヤクザ業界全体をどう変えたいか、明確な考えを持っているように見える。

彼は山口組の歴史の中で初めて登場した理念や経綸を併せ持つトップといえよう。

■織田代表の来歴

織田はもともと五代目山口組で若頭補佐の一人だった倉本広文が率いた初代倉本組(奈良)の出身である。主流派の出ではない。

親分の倉本が1998年に急死した後、織田は2002年3月28日、旭川刑務所を満期出所し、大阪で「織田興業」を再結成した。同年、当時、山健組系の健竜会会長だった井上邦雄の盃を受け、健竜会入りした。健竜会は山口組五代目・渡辺芳則が最初に創設した組であり、健竜会の会長だった者が直後に山健組の組長に上るなど、山健組では「名門」といわれていた。以後、織田は健竜会と山健組の昇進階段を急速に上った経歴を持つ。

しかし織田は山健組では外様であり、かといって山健組の外育ちでもなく、本当の意味での中育ちでもない。よって山健組に対しては、反省の念は持つものの、恨みつらみは持たず、過去の愛憎の念に左右されることが薄い。しかし直接、井上邦雄の謦咳に接し、彼の組長としての器量を身近に見ている。また司忍の山口組支配(これを「弘道会支配」「名古屋支配」などともいう)に対しては、山健組の幹部として直接的、間接的に体験している。

織田は山口組のしがらみを離れて、山健組や弘道会を比較的、平静に見られる立場にある。彼はそれまでの山口組の二派、司や井上とは異なり、初めて山口組の改革、ヤクザ世界の改革を唱えた人間である。雄弁家であり、実績と言葉によって中堅、若手 層を結集できる改革者的な一面を持つ。

『三国志』は三世紀の中国を舞台に曹操の曹魏、劉備の蜀漢、孫権の孫呉――三国が争い合った時代を描くが、最終的に勝ち残った者はいないとされる。山口組三国志の決着が今後どういう形でつくのか、予測は極めて難しい。

筆者はここ二年足らずの間、織田に10回前後インタビューしている。織田は恨みつらみと味方身びいき、トップの下部からのカネの収奪の三つをキーワードに、五代目・渡辺芳則体制と六代目・司忍体制、そして井上邦雄・神戸山口組体制を総括して、反面教師として学び取り、これから実施すべき組運営指針や、トップの守るべき姿勢を模索しようとしている。

■失われた「人権」

山口組三団体の鼎立状態は、煎じ詰めれば内外両面の危機から生まれている。外的危機としては、暴力団対策法(暴対法)や全都道府県が持つ暴力団排除条例(暴排条例)、銀行や保険、不動産業界などが定める暴力団排除要項、組織犯罪処罰法などが挙げられよう。

山口組や系列組員はこれらにがんじがらめにされて一般社会から排除され、今や彼らの基本的人権さえ危ぶまれる状態に置かれている。組員は新規に銀行口座や証券口座を持つことができない。住宅や車、携帯電話などをローンで買うこともできない。民間の賃貸住宅も借りられない。生保や損保に加入すること、ゴルフ場でプレイすることも難しい。

組織名では歳暮、中元の品を宅配便を利用して贈ることもできない。子供の授業料の自動引き落としや給与の自動振込も困難で、大都会ではシティホテルに宿泊することもできない。甚だしい場合には仲間が死んでも葬祭場を借りられず、組事務所に数人分の鮨の出前を頼むこともできない。

これらは暴力団に対する「利益供与」と見なされ、土地ごとの暴排条例が「利益供与」した民間業者にもペナルティーを科すからだ。こうしたことは山口組に限った禁止条項ではなく、全暴力団に押し及ぶ禁圧項目である。組をやめてから五年以内の元暴力団組員も同じ扱いを受ける。よって刑務所から出所したばかりの元組員は住まいを借りることもできない。仮に必要書類に家族や知人の名を借りて署名しようものなら、詐欺や偽造私文書等行使罪などで逮捕される。

つまりヤクザ、暴力団は現代社会に生きる資格なしと宣言されたに等しい。警察や検察、裁判所、国や自治体、業界団体などが揃ってヤクザ、暴力団を敵視している。とりわけ警察は暴力団の壊滅を言い立て、記者クラブ経由で警察に情報提供を仰ぐマスメディアも、その尻馬に乗ってヤクザ、暴力団を安心して叩く。

ヤクザ、暴力団を庇う組織や人はこの世にほぼ存在しない。人権派の弁護士でさえ、彼らの代理人になることに難色を示す状況が存在する。なぜここまでヤクザ、暴力団が嫌われたのか。ヤクザ、暴力団は自分たちの処遇がなぜこうなるまで放置したのか。それ自体が問題だが、ともあれ、山口組に限らず全暴力団がこうした外的危機にあることは明白な事実である。

■崩壊する親分子分関係

内的危機は組織と経済に深く関わっている。ヤクザ、暴力団の組員を長く律してきた盃事による親分―子分関係にガタが来ているのだ。親分からもらった子分という身分を、親分の許可なく抜け出る行為は、もらった盃を親分に突き返すことと同じとされる。よって「逆盃」と呼ばれてタブーとされているが、今という時代ほど伝統的な「盃事」と、それに伴う「擬制血族関係」が崩れた時代はなかろう。

親分―子分関係は雇用関係ではない。私的関係であり、法は介入できないし、介入しない。しかも親分が子分にこづかいを渡す関係ではなく、稼いだカネを親分に差し出すのは子分の役割である。そうでなくても子分は、日常生活を組のために厳しく律せられて、組のため、組長のため奉仕させられている。

これに対して、親分が子分に提供できるのは、この者はこの組に所属しているという代紋の使用権だけだ。組員が懲役に行った場合、何年後か、あるいは何十年後かに出所した組員を手厚く出迎え、いい待遇を与えるというのが組の最低限の責務とされてきたが、これはほとんど反故にされている。

殺傷行為に対する判決は重罰化する一方で、今では無期や懲役25年、30年といった長期刑がざらに見られる。服役者が命あるうちに出所できたとしても、そのときには迎え入れる組はなく、厚遇する資金の貯えも組のポストもない悲劇が生まれる。

つまり親分は子分に差し出せる物が何もないくせに、子分から奪う一方なのだ。

代表例が月の会費だろう。親分は子分たちが月々納める一人当たり数十万円もの会費を私的経費とすることで、その生活は栄耀栄華を極める。親分の多くはそれを親分という地位に付随する当然の権利と考え、子分により多くのカネを運ばせようとする。子分にとって盃が課す義務は片務的だから、ヤクザの業界倫理や盃事が崩れるのは時間の問題でしかない。

換言すれば、ヤクザ、暴力団組織そのものが時代に後れて立ち往生している。親分―子分関係はよほどのマゾヒストにしか耐えられないシステムなのだ。組織的な合理性はどこにもない。

■殺し合いが起きる

任侠山口組では、暫定的な形ではあるものの、親子盃をせず、組長制を敷かず、中堅組員を横並びにして、単に織田絆誠という代表を置くだけである。しかも月会費はオール10万円以下と定めている。こうした形が定着するかどうかは別だが、これもヤクザ改革の一部にちがいない。

織田はヤクザ、暴力団が反社会的勢力であることをやめなければ、今の社会的な爪弾きから抜け出せないと考える。そのためには少しでも社会の役に立つ存在でありたい。街の人にたまには感謝される存在になりたい。それが「任侠山口組」という名乗りなのだ。具体的には街から不良外国人グループを追い出し、高齢者や弱者を騙してカネづるにしない指導を半グレ集団に行う。あるいは海外在住の日本人を内戦やテロから保護する活動なども手がけたい。

任俠といえば、一口に「弱きを助け強きを挫く」存在だろうが、今さらヤクザにそんな行動が取れるのか、疑わしく思う人も少なくないにちがいない。任俠は浪曲や物語の世界でのヤクザであり、おまけにそれが成立したとしても、個人にであって、組織が任俠風に振る舞うのは難事だろう。警察も、ヤクザが街の治安向上に乗り出せば、紛らわしいことをするな、と迷惑がるかもしれない。

はたして「任俠」が世に受け入れられるか疑問だが、少なくとも従来型の考えないヤクザ、暴力団より、自分たちが世に受け入れられるためにはどうすべきか、ヤクザ当人たちが考えるだけでも前進だろう。少なくとも任俠を実践するためには、そのヤクザの器量と感性が問われるのだ。カネ儲けや遊蕩し放題のヤクザ、暴力団のトップができることではなく、個人的資質が問われるようになる。

ヤクザ、暴力団が新しい枠組み、規範を求めているのは確かである。それにどこまで応えられるかが、生き残る組織を決めていくのではないか。つまり山口組は内外ともに危機を迎え、時代の曲がり角にさしかかっているから、三つの山口組の鼎立状態、つまり「山口組三国志」が生まれたとも考えられる。なんらかの新しい方法、システムを手にしなければ、彼らの明日どころか、今日がないのだ。

三つの山口組はそれぞれ暴力団対策法や組織犯罪処罰法の適用を恐れ、中でも「特定抗争指定暴力団」への指定と、トップが「組織的殺人」で逮捕、収監されることを嫌い、銃器を使った相手への攻撃を極力、手控えている。この点、1984年から89年まで足かけ6年に及んだ「山口組対一和会抗争」とは大きく様相を異にする。山一抗争では双方合わせ死者29人、負傷者66人を出した。

しかし山口組三国志でも山一抗争時の攻撃法が一部だが、再現されている。

2016年5月、神戸山口組の直系池田組の若頭・高木忠が六代目山口組の主力部隊である弘道会系組員・山本英之により射殺された(山本への判決は無期懲役)。

2017年9月には神戸山口組の同じく主力部隊である山健組系組員・黒木こと菱川龍己が任侠山口組代表・織田絆誠の乗った車に車をぶつけて停止させた上、織田を警衛する組員・楠本勇浩を射殺した。黒木ら襲撃班は楠本の対応に慌て、織田を無傷のまま攻撃を中断して、逃走した。

二つの事件とも組織のトップが必殺を期して決断、指示し、配下の組員を動かした事件のはずだが、一方は成功し、一方は失敗した。襲撃に際して、事件にきびすを接して動く警察の捜査を考慮せざるを得ない状況が続くが、それでもトップが必要と判断すれば、ターゲットに向けて銃弾が発射される。

今後、三国志の最終決着がつくまでの間、何度か同じような殺し合いが発生するにちがいない。当事者がヤクザ、暴力団であるからだ。

(文中敬称略)

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みぞぐち・あつし―ノンフィクション作家。ジャーナリスト。1942年、東京都に生まれる。早稲田大学政治経済学部卒業。出版社勤務などを経て、フリーに。常にきわどい問題を扱い続けるハード・ノンフィクションの巨匠。「食肉の帝王」で、第25回講談社ノンフィクション賞を受賞した。
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溝口 敦

参照元 : 現代デジタル

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