<指定暴力団「合田一家」>トップの総長ら数人を逮捕
2016年1月12日(火)12時21分配信
◇福岡、山口両県警が威力業務妨害容疑などで
土地の売買を妨害したとして、福岡、山口両県警が指定暴力団「合田一家」(山口県下関市)トップで総長の末広誠容疑者ら数人を威力業務妨害容疑などで逮捕したことが捜査関係者への取材で分かった。
捜査関係者によると、逮捕容疑は昨年7月ごろ、福岡市の不動産会社が山口県下関市で販売を計画していた土地の隣に、「養豚場計画地」と書かれた看板と日本国旗を立てて同社の業務を妨害したなどとしている。
事件を巡っては、福岡県警が昨年11月、合田一家系組長ら6人を同容疑などで逮捕し捜査を進めていた。この土地は、同社が昨年4月、約6000万円で取得。北九州市小倉北区の不動産会社に1億数千万円で売買が決まりかけたが、嫌がらせを受け、とりやめになったという。
参照元 : 毎日新聞
七代目合田一家(山口県下関)末広誠総長
ヤクザ史に燦然と輝く名門を継ぐ
▼合田一家末広総長
名門「籠寅」の系脈を受け継ぎ、山口県下関市を本拠地に県下を中心に勢力を張っている合田一家の系譜は、初代合田幸一〜二代目浜部一郎〜三代目浜崎彰〜四代目川崎友治〜五代目山中大康〜六代目温井完治〜七代目末広誠総長と続く。
合田一家の結成は昭和二十三年で、歴史的には戦後派の新興博徒組織だが、その源流は、明治、大正、昭和と、九州の吉田磯吉とともに稀代の侠客といわれた保良浅之助の籠寅組の系譜を引く。保良浅之助の父親は虎吉といって、魚を入れる竹龍づくりの職人であり、その屋号が「籠寅」であった。そしてこの屋号がのちの保良の異名となり、組織名となった。
保良は時代の流れを先取りしながら次々に事業を拡張した。日露戦争直後の明治三十九年にトロ箱の製造拠点として山口県下関市に進出する。同時にヤクザ社会でも着々と地盤を固め、しだいに頭角を現わしていく。
その保良がやがて興行界に進出。浪曲、講談、浪花節、芝居などを手がけ、関西各地で大きな劇場を経営するまでになる。興行のネットワークを利用しながら、その名が全国に浸透する籠寅一家は、事実上、広域組織のようなもので、その組織力は日本のトップクラスだったと言っていい。
だが、そこに大きなライバルが登場する。同じく興行界への本格進出を開始した神戸の二代目山口組である。その結果、両者に深刻なトラブルが生まれ、籠寅の刺客が山口登を襲撃する。山口は一命を取り留めたが、結局この時の傷がもとで絶命することになる。だから合田一家と山口組は、その黎明期にトップのタマを「殺った、殺られた」間柄なのだ。
もちろん現在、両者の間にこの時の遺恨はすでになく、当時を知る関係者も皆無である。
また保良は生粋の博徒というわけではなく、その点で山口組のいい手本になった。山口組田岡一雄三代目は、保良のつくりあげた現代ヤクザのスタイルを引き継ぎ、発展させていったといっていい。
実際、保良が下関―韓国・釜山という海運業界の一大拠点に強力な地盤を形成していたこともあって、当時の流通業界にも大きな影響力を持っていたことは見逃せない。
「籠寅が首を横に振れば、関釜の荷役は止まる」と言われるほど、保良の影響力は絶大だったというから、この点も港湾荷役事業で発展した山口組の姿と重なる。
その後、保良はこうした力を背景に政界へと進出。それに伴い、ヤクザ社会から隠退し、実子である寅之助が籠寅二代目を継承、戦後、その系譜は合田幸一初代総長へと受け継がれる。昭和二十三年のことで、このとき、合田総長は、「名誉ある籠寅の名跡をそのまま引き継ぐ上は、あまりにも恐れ多い」として、あえて籠寅の家名を踏襲せずに、渡世の跡目だけを継承する形で合田一家を興し、代紋も合田一家の代紋に変更したのだった。
末広誠七代目総長が誕生したのは、平成二十一年十月二十日のことである。
合田一家では同年八月二十六日に先代である温井完治六代目総長の引退が発表され、その跡目に一家一門の総意により、末広総長が指名されており、先だって九月五日には盃直しの儀式も執り行なわれていたのである。
後見人に六代目山口組・高山清司若頭。先代・温井六代目総長に引き続き、末広七代目総長の「後見人」を務め、この継承式に列席し、取持人の五代目共政会・守屋輯会長(名代・石井謙二会長代行)も儀式を見守るなか、極東会会長補佐の山本達三・五代目松山舎弟の媒酌によって執り行なわれた。
合田幸一初代の提唱によって結成された西日本独立団体の親睦会「関西二十日会」(解散)は〈反山口組連合〉とみられていたこともあり、合田一家と山口組との間では、ほとんど交流がなかった。だが、温井六代目総長の継承式に際し、当時、五代目山口組舎弟頭補佐で中国・四国ブロックのブロック長を務めていた大石誉夫・大石組組長が「後見人」を務め、友好関係を構築。さらに山口組が六代目体制を発足させた平成十七年には、高山若頭が温井六代目総長を後見するようになった。以後、合田一家は山口組の親戚団体として、司忍六代目の誕生会を兼ねた新年会に招待され、盆と暮れには神戸の本家に挨拶に出向き、また食事会を開くなどして友好の絆を深めてきた。
末広総長は、これらの行事に六代目合田一家若頭として常に温井六代目総長に同行。また山口組の親戚団体の若頭、理事長といったナンバー2が集まる「若頭会」にも出席し、山口組の最高幹部や直参、またその親戚友好団体のトップや最高幹部らと親交を深め、業界では広く顔を知られている。
同年十月二十四日には、末広総長ら七代目合田一家最高幹部が名古屋の二代目弘道会本部を訪問し、高山若頭(二代目弘道会会長)に挨拶し、両団体の絆をさらに深めている。
こうして新体制を発足させた七代目合田一家は、組織のさらなる発展と、業界の平和共存を進めるべく、力強く第一歩を踏み出したのである。
▼山口組への挨拶を終えた末広総長と最高幹部
参照元 : 通信時報チャンネル
▼七代目合田一家 総本部
合田一家(ごうだいっか)は、山口県下関市に本部を置く暴力団。指定暴力団であり、構成員数は2014年末の時点で約90人。
略歴
篭寅組の代貸であった合田幸一が1948年(昭和23年)頃に下関市を本拠地として『合田組』を結成。これを直接の起源とする。1968年(昭和43年)をもって『合田一家』と名を変え、その後数代を経てゆく過程で反目勢力との対立抗争を繰り返しながら勢力を拡大していった。1987年(昭和62年)に山中大康こと李大康が五代目を襲名したのち、山口県下の反目勢力を次々と吸収、県全域を勢力範囲とするまでになった。
初代籠寅組
保良浅之助が設立した。
詳細は「保良浅之助」を参照
二代目籠寅組
保良浅之助の長男・保良寅之助が籠寅組二代目を継いだ。
合田組・初代合田一家
昭和23年(1948年)頃、合田幸一が籠寅組を引き継ぐ形で合田組を設立した。合田幸一は、籠寅組の代紋を継いだが、恐れ多いとの事で籠寅組の家名は継がなかった。 昭和45年(1970年)、合田幸一の提唱により反山口組同盟・関西二十日会が結成された。加盟組織は、合田一家、大阪市の松田組、神戸市の忠成会、姫路市の木下会、岡山市の浅野組、広島市の共政会、福岡市の工藤会など。
昭和63年(1988年)、西日本二十日会が結成された。関西二十日会とは違い、特に山口組を仮想敵とするわけではなかった。西日本二十日会の加盟団体は、唐津市の西部連合、下関市の合田一家、広島市の共政会、尾道市の侠道会、笠岡市の浅野組、松山市の松山連合会[要曖昧さ回避]、岡山市の木下会、徳島市の勝浦会、高松市の親和会、大阪市の波谷組だった。
五代目合田一家
平成4年(1992年)7月27日、山口県公安委員会から指定暴力団に指定された。
六代目合田一家
平成6年(1994年)2月、合田一家若頭・温井完治が合田一家六代目を継いだ。五代目山口組舎弟頭補佐・大石誉夫(後の六代目山口組顧問)が後見人となった。
平成8年(1996年)2月、四代目共政会、二代目俠道会、三代目浅野組、六代目合田一家、親和会は、親睦会「五社会」を結成した。
七代目合田一家
総長温井完治の引退を受け、六代目体制の最高幹部であった傘下小桜組の末広誠が2009年の9月に七代目を襲名。
かしら==歴代総長==
籠寅組初代 :保良浅之助
籠寅組二代目 :保良寅之助
合田一家初代 :合田幸一
合田一家二代目:浜部一郎
合田一家三代目:浜崎 彰
合田一家四代目:川崎友治
合田一家五代目:山中大康
合田一家六代目:温井完治
合田一家七代目:末広誠こと金教煥
最高幹部
総長 - 末広誠こと金教煥
総長補佐 - 岡村忠雄
舎弟頭 - 岡村吉衛(岡吉組組長)
若頭 - 谷静夫 (二代目一松組組長)
本部長 - 新井鐘吉こと朴鐘吉(五代目小桜組組長)
幹事長 - 皿田正信 (二代目岡村組組長)
組織委員長 - 橋本鋭二 (橋本組組長)
慶弔委員長 - 三好俊市郎(五代目甲斐組組長)
総務委員長 - 琴村鉄男 (琴村組組長)
事務局長 - 片山洋二郎 (片山組組長)
舎弟- 早田義雄 (二代目中川組組長)- 岡田健治 (三代目倉重組組長)- 大藤担介 (二代目阿部組組長)- 田中久夫 (田中久組組長)
参照元 : wiki/合田一家
2016年1月12日(火)12時21分配信
◇福岡、山口両県警が威力業務妨害容疑などで
土地の売買を妨害したとして、福岡、山口両県警が指定暴力団「合田一家」(山口県下関市)トップで総長の末広誠容疑者ら数人を威力業務妨害容疑などで逮捕したことが捜査関係者への取材で分かった。
捜査関係者によると、逮捕容疑は昨年7月ごろ、福岡市の不動産会社が山口県下関市で販売を計画していた土地の隣に、「養豚場計画地」と書かれた看板と日本国旗を立てて同社の業務を妨害したなどとしている。
事件を巡っては、福岡県警が昨年11月、合田一家系組長ら6人を同容疑などで逮捕し捜査を進めていた。この土地は、同社が昨年4月、約6000万円で取得。北九州市小倉北区の不動産会社に1億数千万円で売買が決まりかけたが、嫌がらせを受け、とりやめになったという。
参照元 : 毎日新聞
七代目合田一家(山口県下関)末広誠総長
ヤクザ史に燦然と輝く名門を継ぐ
▼合田一家末広総長
名門「籠寅」の系脈を受け継ぎ、山口県下関市を本拠地に県下を中心に勢力を張っている合田一家の系譜は、初代合田幸一〜二代目浜部一郎〜三代目浜崎彰〜四代目川崎友治〜五代目山中大康〜六代目温井完治〜七代目末広誠総長と続く。
合田一家の結成は昭和二十三年で、歴史的には戦後派の新興博徒組織だが、その源流は、明治、大正、昭和と、九州の吉田磯吉とともに稀代の侠客といわれた保良浅之助の籠寅組の系譜を引く。保良浅之助の父親は虎吉といって、魚を入れる竹龍づくりの職人であり、その屋号が「籠寅」であった。そしてこの屋号がのちの保良の異名となり、組織名となった。
保良は時代の流れを先取りしながら次々に事業を拡張した。日露戦争直後の明治三十九年にトロ箱の製造拠点として山口県下関市に進出する。同時にヤクザ社会でも着々と地盤を固め、しだいに頭角を現わしていく。
その保良がやがて興行界に進出。浪曲、講談、浪花節、芝居などを手がけ、関西各地で大きな劇場を経営するまでになる。興行のネットワークを利用しながら、その名が全国に浸透する籠寅一家は、事実上、広域組織のようなもので、その組織力は日本のトップクラスだったと言っていい。
だが、そこに大きなライバルが登場する。同じく興行界への本格進出を開始した神戸の二代目山口組である。その結果、両者に深刻なトラブルが生まれ、籠寅の刺客が山口登を襲撃する。山口は一命を取り留めたが、結局この時の傷がもとで絶命することになる。だから合田一家と山口組は、その黎明期にトップのタマを「殺った、殺られた」間柄なのだ。
もちろん現在、両者の間にこの時の遺恨はすでになく、当時を知る関係者も皆無である。
また保良は生粋の博徒というわけではなく、その点で山口組のいい手本になった。山口組田岡一雄三代目は、保良のつくりあげた現代ヤクザのスタイルを引き継ぎ、発展させていったといっていい。
実際、保良が下関―韓国・釜山という海運業界の一大拠点に強力な地盤を形成していたこともあって、当時の流通業界にも大きな影響力を持っていたことは見逃せない。
「籠寅が首を横に振れば、関釜の荷役は止まる」と言われるほど、保良の影響力は絶大だったというから、この点も港湾荷役事業で発展した山口組の姿と重なる。
その後、保良はこうした力を背景に政界へと進出。それに伴い、ヤクザ社会から隠退し、実子である寅之助が籠寅二代目を継承、戦後、その系譜は合田幸一初代総長へと受け継がれる。昭和二十三年のことで、このとき、合田総長は、「名誉ある籠寅の名跡をそのまま引き継ぐ上は、あまりにも恐れ多い」として、あえて籠寅の家名を踏襲せずに、渡世の跡目だけを継承する形で合田一家を興し、代紋も合田一家の代紋に変更したのだった。
末広誠七代目総長が誕生したのは、平成二十一年十月二十日のことである。
合田一家では同年八月二十六日に先代である温井完治六代目総長の引退が発表され、その跡目に一家一門の総意により、末広総長が指名されており、先だって九月五日には盃直しの儀式も執り行なわれていたのである。
後見人に六代目山口組・高山清司若頭。先代・温井六代目総長に引き続き、末広七代目総長の「後見人」を務め、この継承式に列席し、取持人の五代目共政会・守屋輯会長(名代・石井謙二会長代行)も儀式を見守るなか、極東会会長補佐の山本達三・五代目松山舎弟の媒酌によって執り行なわれた。
合田幸一初代の提唱によって結成された西日本独立団体の親睦会「関西二十日会」(解散)は〈反山口組連合〉とみられていたこともあり、合田一家と山口組との間では、ほとんど交流がなかった。だが、温井六代目総長の継承式に際し、当時、五代目山口組舎弟頭補佐で中国・四国ブロックのブロック長を務めていた大石誉夫・大石組組長が「後見人」を務め、友好関係を構築。さらに山口組が六代目体制を発足させた平成十七年には、高山若頭が温井六代目総長を後見するようになった。以後、合田一家は山口組の親戚団体として、司忍六代目の誕生会を兼ねた新年会に招待され、盆と暮れには神戸の本家に挨拶に出向き、また食事会を開くなどして友好の絆を深めてきた。
末広総長は、これらの行事に六代目合田一家若頭として常に温井六代目総長に同行。また山口組の親戚団体の若頭、理事長といったナンバー2が集まる「若頭会」にも出席し、山口組の最高幹部や直参、またその親戚友好団体のトップや最高幹部らと親交を深め、業界では広く顔を知られている。
同年十月二十四日には、末広総長ら七代目合田一家最高幹部が名古屋の二代目弘道会本部を訪問し、高山若頭(二代目弘道会会長)に挨拶し、両団体の絆をさらに深めている。
こうして新体制を発足させた七代目合田一家は、組織のさらなる発展と、業界の平和共存を進めるべく、力強く第一歩を踏み出したのである。
▼山口組への挨拶を終えた末広総長と最高幹部
参照元 : 通信時報チャンネル
▼七代目合田一家 総本部
合田一家(ごうだいっか)は、山口県下関市に本部を置く暴力団。指定暴力団であり、構成員数は2014年末の時点で約90人。
略歴
篭寅組の代貸であった合田幸一が1948年(昭和23年)頃に下関市を本拠地として『合田組』を結成。これを直接の起源とする。1968年(昭和43年)をもって『合田一家』と名を変え、その後数代を経てゆく過程で反目勢力との対立抗争を繰り返しながら勢力を拡大していった。1987年(昭和62年)に山中大康こと李大康が五代目を襲名したのち、山口県下の反目勢力を次々と吸収、県全域を勢力範囲とするまでになった。
初代籠寅組
保良浅之助が設立した。
詳細は「保良浅之助」を参照
二代目籠寅組
保良浅之助の長男・保良寅之助が籠寅組二代目を継いだ。
合田組・初代合田一家
昭和23年(1948年)頃、合田幸一が籠寅組を引き継ぐ形で合田組を設立した。合田幸一は、籠寅組の代紋を継いだが、恐れ多いとの事で籠寅組の家名は継がなかった。 昭和45年(1970年)、合田幸一の提唱により反山口組同盟・関西二十日会が結成された。加盟組織は、合田一家、大阪市の松田組、神戸市の忠成会、姫路市の木下会、岡山市の浅野組、広島市の共政会、福岡市の工藤会など。
昭和63年(1988年)、西日本二十日会が結成された。関西二十日会とは違い、特に山口組を仮想敵とするわけではなかった。西日本二十日会の加盟団体は、唐津市の西部連合、下関市の合田一家、広島市の共政会、尾道市の侠道会、笠岡市の浅野組、松山市の松山連合会[要曖昧さ回避]、岡山市の木下会、徳島市の勝浦会、高松市の親和会、大阪市の波谷組だった。
五代目合田一家
平成4年(1992年)7月27日、山口県公安委員会から指定暴力団に指定された。
六代目合田一家
平成6年(1994年)2月、合田一家若頭・温井完治が合田一家六代目を継いだ。五代目山口組舎弟頭補佐・大石誉夫(後の六代目山口組顧問)が後見人となった。
平成8年(1996年)2月、四代目共政会、二代目俠道会、三代目浅野組、六代目合田一家、親和会は、親睦会「五社会」を結成した。
七代目合田一家
総長温井完治の引退を受け、六代目体制の最高幹部であった傘下小桜組の末広誠が2009年の9月に七代目を襲名。
かしら==歴代総長==
籠寅組初代 :保良浅之助
籠寅組二代目 :保良寅之助
合田一家初代 :合田幸一
合田一家二代目:浜部一郎
合田一家三代目:浜崎 彰
合田一家四代目:川崎友治
合田一家五代目:山中大康
合田一家六代目:温井完治
合田一家七代目:末広誠こと金教煥
最高幹部
総長 - 末広誠こと金教煥
総長補佐 - 岡村忠雄
舎弟頭 - 岡村吉衛(岡吉組組長)
若頭 - 谷静夫 (二代目一松組組長)
本部長 - 新井鐘吉こと朴鐘吉(五代目小桜組組長)
幹事長 - 皿田正信 (二代目岡村組組長)
組織委員長 - 橋本鋭二 (橋本組組長)
慶弔委員長 - 三好俊市郎(五代目甲斐組組長)
総務委員長 - 琴村鉄男 (琴村組組長)
事務局長 - 片山洋二郎 (片山組組長)
舎弟- 早田義雄 (二代目中川組組長)- 岡田健治 (三代目倉重組組長)- 大藤担介 (二代目阿部組組長)- 田中久夫 (田中久組組長)
参照元 : wiki/合田一家
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